別れ道
二月の半ばに、緩みかけようとしていた季節を一気に引き戻す寒気が訪れた。
宮野の屋敷は無駄に広く、一つの部屋を温めても、他の部屋へ移動する間にすっかり体が冷えてしまう。外に面した廊下を通らなければならなかったりすると、移動が億劫になった。
「至輝様」
そつのない呼びかけの声に振り返ると、百家の長女・孜子がかしこまっていた。
至輝が幼少の頃からここで働く、見慣れた相手である。至輝の遊び相手から果ては家庭教師代理までこなしてきた人物で、思えば彼女が苦手なことを至輝は知らない。
「ああ、なんだ?」
「薫子がまたこちらで勤めさせていただきます。台所のほうに手が足りませんので。至輝様の御前に出ることはないと思いますが、お知らせを」
「ふうん?薫子、大学は暇になったのか?」
薫子は、百家の人間にしては珍しく大学に行っている。孜子と同じく、至輝にとっては見慣れた相手。歳も近かったぶん、一緒に遊んだ記憶が、――あっていいはずなのだが、ない。むしろ、慶藤という一番の遊び相手をとってしまう、至輝にしてみれば「嫌な女の子」だった。
「そのようです」
孜子は流暢に受け答えをする。
「それだけ?」
「ええ。――引き止めてしまって申し訳ありませんでした」
「いや、いい。――あ、そうだ。なんか飲み物を頼む。あったかいやつ」
「かしこまりました。お部屋のほうへお持ちしてよろしいでしょうか?」
「ああ」
渡り廊下の向こう、別棟に至輝の自室はある。
やはり和風の造り。
昔は廊下を挟んだ向かいに、慶藤の部屋があった。今は、由布の本置き場と化しているが。
由布の部屋は、彼女が十二の年に別棟に移されたが、それ以前まではすぐ近くに部屋があり、三人で夜中までよく遊んでいた。時折そこに、薫子が加わった。百家の他の姉妹たちは、あまり積極的ではなかった。
庭に面した場所を通っていたとき、ふいに声が聞こえてきた。
普段から周囲に警戒しろと教わってきた良家の子息は、はっとして身構える。――が、こっそり現れたのは見慣れた幼馴染だった。
「・・・フジ?」
「至輝、ちょっとかくまって」
「はぁ?おまえ、いったいなにして・・・」
問い詰める暇もない。フジは至輝を引っ張って、至輝の部屋へと入る。その慣れた様子は、彼が影役をしていたころのままだ。
「なんだ、一体?おまえまさか、不法侵入?」
至輝が問えば、フジはあっさりうなずく。
「だって許可出ねぇし」
「なんでまた?」
「――薫がなんか企んでる。それを探りに」
「薫子が?」
先ほど聞いたばかりの名である。
薫子が企む、と聞くと、なにやら物騒だ。
大学進学を選ぶだけあって、彼女は賢い。というか、悪賢い。幼いころはフジと組んで、大人を打ち負かすような少女だった。
大学生になったころから彼女は宮野の屋敷を離れたが、そのころから春日で暴れているらしいという噂が聞こえてきた。
春日は一族内で争いが絶えないというが、それを宮野にまで持ち込んだりしない。最低限の節度なのだそうだ。――知らぬうちに巻き込まれている可能性は大いにありえるのだが。
だから、春日一族内部で何が起こっているのか至輝はあまり知らない。
「うっわ、おまえの部屋ぜんぜんかわってないな」
フジは無遠慮に部屋の中を歩き回る。
和洋折衷の奇妙な部屋だが、至輝自身は使いやすくて気に入っている。逆にフジは、和に染まった部屋にしていたが、残念ながら今は由布の本置き場である。
「薫子が何か企んでるって、そんなの上に任せとけばいいんじゃないのか?」
「上は上でつぶしあいやってたから、初動が遅れたんだよ。ようやく手を組んだけど、組織がでかいから逆にすばやい動きがとれない。だから個人で動いてる。薫に好き勝手されると、俺も困るからな」
「・・・なるほど」
よくわからないがうなずいておく。
結局、薫子もフジもここに住んでいた頃と変わらないのだ。上の世代を相手取って喧嘩をふっかけ、やり込める。悪ガキのままだ。
幼少期からの悪さをする仲間といったら、普通男同士のような気もするが、フジも薫子も普通じゃない。まぁ、こっちを巻き込まないのならば好きにすればいい。
と思っていた瞬間だった。
「失礼します」
と、孜子の声がふすま越しに聞こえた。フジがさっと身を隠したのを見届け、入室を許可する。
「暖かいお茶をお持ちいたしました」
孜子が入ってきて、ふすまを閉める。
「ああ、そこに・・・」
言いかけたとき、フジが飛び出していた。
手には、抜き身の刀。――脇差というのが近いだろう、短い刀身である。
両手がふさがっている孜子は、とっさに対応できず、首に切っ先を突きつけるフジをにらむ。
「フジ・・・?!」
驚いたのは至輝も孜子も同じだ。
フジだけが余裕の表情でいる。
「ナイスタイミング。――俺の普段の行いはそんなによかったかな」
いいわけないだろう、といいたかったが、とっさに口が固まっていて言えない。
「何のつもり?」
孜子がゆっくりした動作でお盆を手近な机に置く。そして引き続きゆっくりした動作で両手を挙げた。
「薫は何を企んでる?」
「知らないわよ。あなたのほうが、知ってるんじゃなくて?」
「時間がない、会わせろ」
「馬鹿いわないで、あなた、許可とってここに入ってるの?」
「許可が下りるなら、とっくに正面玄関から薫に会いに行ったさ」
「普段の行いが悪いから、いざというときに許可が下りないのよ、馬鹿ね」
ここぞとばかりに、孜子が言い返す。
フジは自覚があるらしく、一瞬詰まったが、笑みだけは崩さない。
「俺に協力しろ、孜子」
孜子が顔をしかめた。
この状況では、協力というより服従である。孜子もそれを思ったのだろう。
「どういうこと?」
「至輝の身が危ないかもしれないと上に進言しろ。そうすれば、おそらく俺に至輝の護衛任務がまわってくる」
「それでめでたく宮野入り?――あなたこそ何を企んでるの」
「詳しいことは後で話してやる。下手なこと聞かせると、若君が暴走する」
「はじめから若君を巻き込まない方法をとってほしかったわ。わかってるの?ルール違反よ」
「俺は残念ながら武士じゃないんだ。武士道なんて、知ったこっちゃねぇよ」
至輝はなんだか気分が悪くなった。
フジは、至輝を巻き込みながらもかかわらせようとしない。
直接的な言葉を使うのなら、――
(俺を利用してる?)
それがわかっても、積もるのは不信感ではない。
自分でもよくわからないけれど、――フジとの距離を感じて、呆然となる。
「フジ・・・・・・」
「悪いな、至輝。こっちも切羽詰ってんだ」
孜子を狙う姿勢を崩さず、フジが言う。
孜子がしぶしぶと言ったていで、首を振った。
「わかったわよ。あなたの言うことは予想できるわ。だから物騒なものは下ろしてちょうだい」
フジがゆっくり刀を下ろした。だが、それを鞘に収めるようなことはしない。
孜子はその様子を見て顔をしかめたが、これについては言及しなかった。
「私はこの後、買い物に出ることになってるわ。話をするならその時でいいでしょう」
「いいだろう」
「で、不法侵入者はどうやってここを出るつもり?」
「適当に」
「馬鹿ね、行きはよいよい、帰りは怖い、よ。さっき泉家の人間が警備に上がってきたわ」
「うわー・・・議会も本気だな」
「手引きするわ。着いて来なさい」
至輝が口を挟めないまま、二人は意見をまとめてしまう。
孜子は至輝に深く頭を下げた。
「一族の若い者が、お騒がせをいたしました。すぐに追い出しますので、ご容赦を」
「・・・いや、いい。招き入れたのは、俺だ。すまなかった」
「そうですね、・・・お優しいのはよいことですが、この者を甘やかしてもらっては困るのは確かですわ。御身をお守りする意味でも、今後はお気をつけください」
「ああ。――うまく外に出してやってくれ。こいつが罰を受けるのは、俺の本意じゃない」
「わかっておりますわ」
孜子はお茶を机に移し、お盆だけもって部屋を辞した。その後を、静かにフジもついていく。
孜子は目立ちこそしないが、なんでもこなせる器用な人間だ。この屋敷のことも熟知している。フジを逃がすことなど造作ないだろう。
頭の中をめぐるのは、そんな心配事ではない。
(利用?)
これまでもなかったかと問われ答えるならば、否だ。
フジはあらゆる状況で、可能なものを可能なだけ利用する。そういう人間なのは、長い付き合いの間に理解した。
けれど。
(違う。・・・今回は、おかしいんだ)
なぜ距離を感じるのだろうか。
わからなくて、心の中で嫌なものが渦巻く。
*