虚像の守護者




 決められていた私立の男子校を受験することに、慶藤は頑として首を縦に振らず、そのせいで春日と宮野の重役が集まって会議したのはもう過ぎたこと。――慶藤の希望は結果として通った。至輝は慶藤と結託して、その男子校を拒否したからだ。至輝だって男ばかりの学校生活より、花のある中学時代を送りたかった。
 結局決まったのは車で四十分かかる中高一貫の共学の学校で、――至輝の偏差値が足りず、家庭教師が一人増えた。そこに落ちたら男子校、と決められていたので、慶藤からのプレッシャーは今までにないものだった。
 そうして入学した学校だと言うのに――慶藤は今、机に伏せて完璧に寝入っている。
 中学二年、秋。
 至輝もそれほど勉強が難しいとは思っていないから、慶藤からすれば寝ていても平気な程度なのだろうが、授業態度の評価はすべて家に筒抜けのはずだ。
 高校受験がないせいだろう、呑気な空気が漂い、慶藤のように寝ている生徒は珍しくないのだが。
 哀れなのは教壇に立っている教師だ。若い数学教師は寝ている生徒を起こせない。なぜなら年度初めに酷くいじめられたから。
「そんなこと教科書に書いてある。授業も出来ないくせに教壇に立つな」
 この、慶藤が発した一言が発端だ。実際にテンポも悪く、上手とは言いがたい授業内容だったため、クラス中がこの発言に乗った。
 それなりの受験戦争を勝ち抜いてきた生徒は、プライド高い。慶藤の発言は、そんな生徒たちの反抗心への起爆剤としては充分すぎたわけだ。
 それ以来、慶藤はほとんどこの授業を睡眠に充てていた。そして、寝る以外のことをしないくせに、授業を抜けたことがない。
 チャイムが鳴る。ほっとした顔をするのは、教師の方。ほっとした、といっても安らかな顔つきにはならない。ようやく終わった、という疲れた様子が漂う。
 慶藤は、授業の終礼にすら参加しなかった。
 数学教師が去って間もなく、担任が入ってきて簡単な連絡事項を言う。
 ここでは、生徒はおおむね従順だ。反抗する相手は、ちゃんと選んでいる。慶藤も起きていた。気だるげに肘を突いているが。
 終礼後はすぐ解散となる。
 ほとんどの生徒が部活に向かうなか、慶藤はあっという間に荷物をまとめて教室を出て行く。至輝はあわててその背中を追った。
 廊下に慶藤の姿は無く、ようやく追いついたのは校門間際だった。
「ふじ!」
 呼び声に慶藤の歩みが止まり、渋々といった感じで振り返る。
「なんですか」
「いつ宮野に戻ってくるんだ」
「議会に聞いてください。おれが決めることじゃありませんから」
「議会なんて関係ないだろ!おまえはおれの影役なんだから!」
「議会がおれを影役に任命して、議会がおれをお役目御免と決めたんです。――駄々こねるのはいい加減にやめたらどうです?」
「慶藤!」
「影役なしでは、何も出来ないおつもりですか」
 言葉が喉で詰まって出てこなかった。
 慶藤の溜息が聞こえる。去っていく足音も。
「慶藤」
「人が来る。――話はまた今度だ。おれは話すこと無いけどな」
 至輝は立ち尽くす。
 慶藤はなんでもない様子で、校門を出て行った。細く頼りない背中は、すぐに見えなくなる。
 一緒に教室にいて、同じ車に乗って登下校して、同じ家で暮らして。――それはつい一週間前まで続いていたことだったのに。
 背後から何人かが至輝を追い越していく。
 呆然としていた至輝の前に、黒塗りの車が止まった。後部のドアが開いて、徳美が出てきた。慶藤が突然影役を降ろされてから、送り迎えの車には必ず徳美が同乗している。
 徳美は、彼女が通う高校の制服姿だった。学校から直接来たらしい。
「お待たせいたしました」
 徳美の姿を目にしたとたん、なぜか苛立ちが沸いた。
 至輝は不機嫌を隠さずに車に乗り込む。席は運転席の後ろと決まっている。護衛役はその隣に。
「学校で、何かございましたか」
「ない」
 吐き捨てるように言うと、徳美はそれ以上何も言わなくなる。至輝のこの対応に、真面目な表情を崩すことは無い。それを見ていると、苛立ちが増してくる。彼女になんら非は無いのに。
「おまえ、明日から来なくていい」
 口をついて出たのは、そんな言葉だった。
 言ってから、「しまった」とは思ったが、深い後悔ではない。
「このお役目は議会からの命令ですので、この場でお返事を申し上げることは出来ません。ですが、わたくしから議会にお伝えいたします」
 徳美はやはり表情を崩すことは無かった。
 するとだんだんと、苛立ちの端っこが、憐憫に似た感情に変化する。理由はわからないけれど。
「徳美」
「はい」
「由布に、会ったか」
「いいえ」
「会ってやれ」
「わたくしはまだ、議会の許可なしに姫にお目通りがかなう人間ではございませんから」
 徳美の声から何かの感情を汲むことはできなかった。
 至輝は唇をかむ。
 さっきの憐憫は、自分に対して抱いていたことがわかったから。


 バスでたどり着いたのは、暮らしなれた宮野の屋敷ではなく、通いなれた実家だ。
 玄関を開けて、ただいま、と言う。その行動すべてに、言いようの無い違和感があった。
「おかえりなさーい」
 陽気な母の声が出迎えてくれる。
 他人との生活が身に染み付いている慶藤だが、この声には違和感よりも安堵が勝った。
「ただいまかえりました」
「ねぇねぇ、おやつ作ったのよ。食べて食べて」
「何を?」
「にんじん入りのケーキでーすっ!」
「いりません、にんじん大嫌いです」
 靴を脱いで鞄を置いて、手を洗って、再び鞄を持って自室に向かって。
 その道中、ずっと母がまとわりついてくる。
「・・・・・・・・・母上」
「はいなんでしょう」
 背景に花でも飛んでいそうな、極上の笑みを浮かべている母。
「なんで付きまとうんだよ」
「だって息子が学校から帰ってくるとか、初めての経験なんだもの」
「初めてって、もう一週間・・・」
「いいじゃない。満喫させてよ」
 そのままぎゅっと抱きしめられる。
「ぜんぜん背が伸びないわねぇ。ちゃんと食べないからよ」
 くすぐったいような、迷惑なような。
 思春期の少年には、迷惑という感情の方が勝った。
「放せってば」
 腕を突っ張ると、ようやく開放される。しかし物理的に開放されただけで、母はまだ隣にいる。
「にんじんケーキ食べてっ!」
「・・・・・・はいはい」
 こういうのは、親孝行と言うのだろうと思う。
 宮野家に影役として出向いたのは四歳になる間際のことだ。本格的に宮野家で暮らし始めたのはその一年後。休日には帰っていたが、訓練があったから一緒にすごせた時間はそれほど無い。
 背中を押されて、台所へと連れて行かれる。
 すでに皿の上に乗せられ切り分けられたスポンジケーキは、うっすらオレンジ色をしていた。思わず顔をしかめる。
「お野菜ぜんぜん食べてくれないから、工夫したのよー?だからちゃんと食べて!もう倒れたりしないように!」
「関係ない」
「あるのっ!食事は体の基本!――今日だって夜間訓練あるんだから、しっかり栄養バランス取れたもの食べなくちゃ!」
「甘いもの嫌いなんだけど」
「甘さ控えめよ」
 根負けして、ひとかけらを食べる。――意外に食べれる味だった。
 そう伝えると、母は大喜びで「もっと食べて」と言う。
 椅子に座って紅茶片手に本格的におやつの時間となった時、玄関の呼び鈴が鳴った。
 母はいそいそと出て行く。
 どうせこの時間帯は、宅急便とかだろうと思っていた。紅茶に生クリームを注いでミルクティーに変えていたら、母が戻ってきた。
「慶藤、お客様なんだけど」
「はぁ・・・じゃあ部屋移るよ」
「じゃなくて、慶藤に」
「・・・誰?」
 真っ先に思い浮かんだのは、至輝だった。聞き分けの無い幼馴染のやりそうなことである。
 だが、それにしては母の様子がおかしい。至輝相手は慣れているはずだ。
「現一君よ」
「ああ、伝令役・・・?」
 重要事項は電話や手紙を使わず、口頭で伝えるのが、春日の決まりだ。この伝令役は若い間者に任せられる仕事の一つである。
 玄関に出ると、良家の現一が待っていた。――三歳年上の、現在高校二年。この三年ほどで身長が伸びて、肩幅もがっちりした。武術の才能は幼少期から大人顔負けだったから、今は怖いものなしと言っていい。従兄弟と言う血縁関係にありながら、慶藤との体格差は天と地ほどもある。
「現一くーん、上がっていかない?ケーキあるわよ」
 空気が読めないのか、あえてそう言っているのか、母は朗らかに提案する。現一は丁寧にそれを断った。
「議会が、何か言ってきたのか」
 尋ねると、こちらの態度が気に食わないのか、現一が眉根を寄せた。
「影役も降りたくせに、偉そうに」
「てめーには関係ねぇだろ。――用件は何だよ」
「由布姫がお呼びだ。すぐに宮野の屋敷に行け」
「由布・・・?」
「議会から面会の許可は出てる。それと一緒に、議会からの呼び出しがかかってる。夜には春日の屋敷に行け」
 無意識のうちにため息が出る。議会からの呼び出しはほとんどの間者が嫌うことである。
「わかった。――母上、ここにおれの正装ある?」
「あるわよ。あ、でも六年生のときに作ったやつだから、ちょっと短くなってるかも」
「大丈夫、身長ほとんど伸びてないし」
 母が苦笑してうなずき、二階へ向かった。
 慶藤もそれに続きかけたが、ふと現一を見送っていないことに気づく。
「じゃ、おまえさっさと帰れよ」
「おう、じゃあな。さっさと身長伸ばせよ」
「ほっとけ」
 現一が、笑顔を残して去っていく。
 現一とはそりが合わない。それはお互いに思っていることだ。けれども時折彼は親しみを見せてくる。そういう時、どう反応を返せばいいのか迷う。
 現一が去った玄関に背中を向けて、二階の和室に向かう。
 和室では、一足先に母がいて、和箪笥をひっくり返していた。
「なに散らかしてんだよ」
「どこにしまったっけー、って思って。――ねぇねぇ。今日は女の子で行ったら?」
「今日だけは勘弁。議会に呼ばれてるんだから、女装で行ったら半殺しにされるじゃん」
 探し出したのは、くすみを帯びた、萌黄色の着物。そこに同じ色の羽織を合わせる。袴は着ない。最後に和風の紐で、肩口で踊る髪を束ねる。
 まだ藤色は似合わないわね、と母が残念そうに言う。名前にちなんだ色だからといって、慶藤が幼い頃に買った藤色の反物は、仕立てずに箪笥の隅にある。
「あ、ちょっとおっきくなってるわね」
「二センチくらい伸びたかな」
「私としては、このままでいてくれたって構わないんだけど」
 ほらほら、と華やかな女物の着物を見せてくる母。慶藤は苦く笑う。
「女装しか道がなくなるのは嫌だよ」
 姿見を見る。――二年前から、大きく変わったことは無い。
 小学六年の時点で身長は百六十センチ弱あった。平均的に見れば低くなかった。
 だがそれから二年。ほとんど伸びる気配が無いのだ。
 肩幅はまったく変わらない。体重も増えない。剣道で体当たりされれば簡単に吹っ飛ぶ。筋肉がつかないから、訓練では遅れをとるようになる。
「成長期が高校生からって言う男の子はいくらでもいるもの。あんまり焦らなくていいと思うわ」
 母はあっさりと言う。
 慶藤にはそう思えなかった。
 今、必要なのだ。上背も、体格も、筋力も。それを補っていた技術さえ足りなくなったから、任期を一年以上も残しながら異例のお役目御免となった。
 慶藤はあいまいに笑って誤魔化す。
「行って参ります。タクシー呼んでください」


 隙が見えたと思った瞬間に、至輝は深く踏み込んで面を打ちにいったが、あっさりと阻まれて、力で競り負けた。
 バランスを崩して倒れる。取り落とした竹刀が跳ねて、音が大きく響いた。
「大丈夫っすか」
「――っ、そう言うなら少しは手加減しろっ!」
「だいぶしてます」
 苛立ちをぶつけても飄々とした反応しか返ってこない。このやりとり、非常にストレスがたまる。
「ま、別に若君強くなんなくたって、将来の護衛は決まってるんですから、いいじゃないですか。だいたいおれたちは訓練受けてますから、若君より大差つけて強いの当たり前なんすよ。実力差にいちいち怒ってもしかたないでしょ」
「そういう言い回しがむかつくんだ!どうにかならないのか、その口の利き方!」
「なーに苛立ってるんすか。ついでに言っとくと、さっきのは実力差と関係ないっすよ。集中力が足りないからです、無様に転んだりすんのは」
「うるさいっ!」
 息が切れるほど怒鳴ると、ようやく相手――現一は黙った。だがその様子に反省の色は無い。
 至輝の剣術指南役の一人に現一が選ばれたのは二年前。異例の中学三年と言う若さだった。それほどに実力があったし、小学生だった至輝に怖いと思わせるほどいい体格をしていた。
 当時から教師らしい態度をとらず、だからと言って家臣らしい態度もとらない。淡々と人の欠点を指摘していくだけだ。
 今までは慶藤も一緒に現一の指導を受けていた。
 慶藤を相手にすると、現一の態度が変わる。いい意味なのか、悪い意味なのかわからないが、――普段やる気の無い現一が本気の目を見せる。
 至輝は床に座ったまま立ち上がらず、しばらくふてくされていた。
 現一が、やれやれといった体で口を開く。
「やんないんすか」
「もういい」
「ほんっと、影役がいないとなんにもできないんすね」
「――っ!誰が!」
「慶藤はたぶん戻りませよ。たとえ影役が続いても、どうせあと一年ちょっとの任期じゃないっすか。一生会えなくなるわけでもないし、落ち込むことじゃないでしょ」
「うるさいっ」
「こうやって言われたくないなら、集中してください。あと十分です」
 至輝は立ち上がらなかった。現一を睨みつけて、反抗の意思を示す。
 現一はため息をついた。
「若君」
「体育の時間に倒れたくらいで、なんでお役目御免なんだ」
「影役は常に主の傍にいなきゃいけない決まりです。学校では、少なくとも授業中は同じ場所にいることが義務付けられています。――説明はこれでいいっすか?」
「よくないっ。影役がいなくなったら、本末転倒だろうが!」
 現一はしばらく態度を決めかねていた様子だったが、やがて説明の続きを始める。
「ま、議会もたぶんこれ以上無理させたくないんでしょ。――若君も大切ですが、慶藤も十家の一粒種だからってのが、本音だと思いますよ」
「無理してるのか」
「おれは中二の時、今の慶藤と同じメニュー難なくこなしてましたけど、あの体じゃきついと思いますよ。春日だって、成長期が終わるどころか始まってさえいないガキに無理させたくないんでしょうけど、慶藤もプライド高いし頑固っすからね。あいつは今までに、遅れをとるなんて経験なかったから、余計に無理するでしょ」
「・・・メニューって、春日の訓練?」
「夜間訓練ですね、主に。夜中の二時半にたたき起こされて、三時間。この三時間が訓練の中じゃ一番ハードっすよ」
「毎日?」
「週三回。やってる内容は機密なんで言えませんけど」
「それやりながら、影役は、大変なのか?」
「そのへんは慶藤じゃないとわかんないでしょ。――ほら、納得したら立ってください。それと、もう十分経ちましたから、片付けていいっすよ」
「ちょ・・・待て現一!」
 早々に去ろうとする現一をあわてて呼び止める。現一は面倒くさそうに振り向いた。
「なんすか」
「何で慶藤は、訓練、しなきゃいけないんだ」
「将来若君を守るためでしょう」
 現一はそういってさっさと去っていく。道場を出る間際、姿勢を正して道場の中へ向かって一礼する。――場所に対する礼だ。やる気なさそうで不真面目にさえ見える彼だが、こういうところは決しておろそかにしない。
 現一を見送って、至輝は無言で竹刀を拾い上げた。
 道場の静けさが、苛立ちを鎮めていく。代わりに、言いようのない、後悔が押し寄せる。
 正面を向いて、姿勢を正す。息を整えるために、大きな呼吸を幾度か繰り返す。自分以外にいなくなった道場で、息の音さえ大きく響く。
 前を見据えて。
 一礼。


 慶藤を呼んだ少女は縁側で庭を眺めていた。
 乳母の桂也乃が名を呼ぶと振り向き、慶藤を目に留めて笑う。
「久しぶりね」
 慶藤は反応に困って、あいまいに笑うことで誤魔化した。
 少女の笑みは年々浮世離れしていくように感じる。微笑みかけられると、なぜかぎょっとする。
「何の用ですか」
「どうして敬語なの?」
「影役を降りましたから。これからは、ただの間者の一人です」
「ふうん」
「御用は?」
「いないから気になっただけ」
 少女は視線を伏せる。縁側から足を垂らし、ぶらぶらさせる。
 慶藤は桂也乃の様子をうかがった。心配そうな表情で少女を見つめていたが、慶藤の視線に気づくと、うなずいて去って行った。
 慶藤は少女の隣に座る。
 少女が口を開く。
「どうして、影役を降りるの?」
「主を守る能力の無い影役は、いらないんですよ。影役はもともと、子が丈夫に育つようにと言う宮野家の儀式だと言いますが、今は違う。もしものときは体を張って守らなければならない。それが、今のおれには無理だと言うことです」
「弱いから?」
「弱い、つもりはなかったんですけどね。――体の大きさだけは、どうしようもない。いつまで経っても体力はつかないし、そうすると毎回厳しくなる訓練にもついていけない。ずっと技術で誤魔化してきたけど、それもあやしくなった。――結局、弱いってことですけど」
 笑おうとしたが、上手くいかなかった。
 頭が重たくて仕方がなかった。目の奥に、鉛でも入れられたみたいに。
 重みに耐え切れなくなって、額を手で支える。静かに目を閉じる。
「おまえは、」
 押し出したはずの声は、かすれていた。
「おまえは、何を守ってるんだ」
 答えは、すぐには返ってこない。
 返答を待つ間に、庭の植木の陰が縁側に届いていた。
 慶藤が顔上げて傍らを見ると、少女が声を殺して泣いていた。袖はぐっしょりと濡れていた。
「わからない」
 小さな小さな声で返ってきたのは、そんな答えだった。
 慶藤は手を伸ばして、少女の頭をぎこちなく撫でる。
 日はもう沈もうとしている。
 光を失くせば、影も消える。


 暗がりの中、声が響く。
「別れの季節は、いつか来ると思うの」
 少女は言う。
「でも私はだれにさよならしたのか、わからない」
 慶藤はうなずくことも忘れて、少女の言葉を聴いていた。
「私は、――由布を守っていると信じてる。いつ明けるともわからない役だけど」
 迫る闇の中で涙に濡れた双眸が、慶藤を射る。
「あなたは、失くしたの?」
 慶藤は一つ瞬いて、涙を振り落とす。
 少女の問いに首を振って否定すると、少女が久しぶりの人間らしい笑みを見せた。
 慶藤は厳かな気持ちで言う。
「失ってない。おれは至輝を守ってる」









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