沈める影
小学四年生の、夏の近づく頃だった。
庭で、水を汲んだバケツをひっくり返したり、しっかりと固められた地面を水で湿らせて掘り返したりして遊んでいた。何が楽しかったのかわからないけれど、ばかみたいなことでも夢中だった。
だが半時もすると、影役の幼馴染は縁側に戻り、柱に寄りかかって寝息を立て始めた。
「慶藤(よしふじ)」
呼んでも起きない。
不安定な格好なのに、寝入っているらしい。
やりたいことは山ほどあるのに、なぜ昼寝なんてするんだろうと思う。せっかくの休日なのに、午前中は剣道をやらされて、昼からは二時間家庭教師がついて、ようやく出来た自由時間なのに。
「ふじっ!」
肩に手をかける。と、――慶藤の体が一瞬跳ね、次の瞬間、手を酷く払われた。
そんなことされる覚えがない至輝(しき)は、一瞬、呆然としてしまう。
慶藤は酷く不機嫌に、至輝をにらみつけた。
「眠いんだよ、寝させろ」
この当時、至輝は人の顔色なんてわからなかったが、後になって思い出してみれば、幼馴染は目の下に隈があるという、およそ小学生には似つかわしくない顔だった。
険悪な雰囲気を終わらせたのは、近づいてくる軽い足音だった。
目をやれば、妹・由布(ゆう)の影役、佐登美(さとみ)が走る姿が目に入る。
「佐登美、どうした?」
佐登美は硬い表情で、しばらく黙っていた。本人は何か言いたげだったが、言葉にならなかったのだろう。
やがて、佐登美が言葉を口にする。
「由布の、病院に行くって。いざよ先生が、二人も来てって――」
おどろく至輝を尻目に、慶藤が立ち上がった。
「由布」
慶藤はためらいもなく、佐登美に向かってそう呼びかけた。
「桂也乃はどうした」
「御用があるから、一緒に行けないって」
「そうか。どこに行けばいい」
「すぐに、そとに、車をまわすって」
「わかった。おまえも行くんだろう?」
「うん」
佐登美は戸惑いを感じた様子なく、平然と慶藤と言葉を交わした。
「――至輝、行こう」
廊下に上がるよう、手を差し伸べてくる慶藤をただ見つめた。――幼馴染が、得体の知れないもののような気がしていた。きっとこのとき自分は、慶藤をほんの少しだけ恐れたのだと、後になって思う。
慶藤は無理やり至輝の手を掴んで、廊下へと引っ張りあげた。そして、手を繋いだまま佐登美の背中を追っていく。
至輝は、慶藤の手を振り払った。
「一人で歩ける」
慶藤は至輝を一瞥しただけで、何も言わなかった。
病院に来る意味がわからない。
そう言ったのは慶藤だった。集まった大人に聞こえないように、ぽつんと。聞いていたのは、至輝と佐登美だけだった。
春日一族の重役だという人々が何人か集まり、ぼそぼそと低い声で話し合いを続けていた。その場所は応接に使われる部屋のようで、病室や病院のイメージとはまったく違っていた。
由布の病室の場所を聞くと、行くなと言われる。わけを聞こうとすると、慶藤に止められた。その代わり、彼は大人たちにこう言った。
「つまらないから、十四階に行ってる」
この病院――真家が管理する、巨大な病院である――の十四階は、喫茶店や本屋、レストランなど、店が入っている。
大人たちは数枚の千円札を慶藤に渡し、こども三人を快く送り出した。
これを口実に、由布の病室を探すのだと、至輝は思っていた。慶藤は頭が回る。なめてかかってくる大人をいともあっさり出し抜く。だから、なにかいい考えがあるのだと思っていた。
しかし向かったのは宣言どおりの十四階で、喫茶店に入り、食べ物と飲み物を慣れた様子で注文する。
「至輝は頼まないの?」
「・・・オレンジジュース」
「――じゃ、オレンジとココアと紅茶。紅茶はホットでミルク。あとは冷たいやつ」
ウェイトレスが注文を繰り返して去っていく。
すでに飽きた様子の佐登美をデザートのメニューを見せてなだめながら、慶藤は至輝の様子をうかがうように問うた。
「理由は聞かないのか」
「あるのか?」
「姫の病室は、誰に聞いたってわかんねーよ。どうせ真家(しんけ)が隠してる」
「なんでおまえがそんなこと言えるんだ」
「親父に聞いたから」
ウェイトレスが、注文したものを運んでくる。追加で佐登美がねだったパフェと、他にもいくつか注文した。
「至輝、いい加減に慣れろよ」
「何にだ」
「宮野の分家に、姫が死にそう、なんて知られたくないんだよ。だから、今入院してるのは影役の佐登美で、ここに居るのは由布なんだよ」
「だって、・・・・・・」
「でも――、今まで見舞いもろくにさせなかったのに、な・・・」
慶藤は不安の混じる思案顔になった。
至輝もそれはうすうす感じていた。
「・・・由布」
ためらいがちに呼ぶと、佐登美は戸惑いの片鱗すら見せず、顔を上げて至輝を見る。
「いや・・・なんでもない」
自分の名前が呼ばれないというのは、どんな気持ちなのか、至輝にはわからない。
佐登美は注文から間もなく運ばれてきたパフェに夢中になっている。表情に感情が出にくい彼女だが、珍しくはしゃいでいるのがよくわかる。
「なぁ、ふじ」
「なに?」
「・・・お父様とお母様が来ないってことは、・・・由布は大丈夫だろう?」
「・・・・・・どうだろうな」
難しい顔で、慶藤は答えた。
「なんで?」
「至輝。――なんで、主家の人間が、たかが影役の子の死に目に立ち会うんだよ」
「でもほんとは由布だろ?おかしいじゃないか。おれが入院したときは、みんな見舞いに来たし、おじい様が死ぬ前はみんな集まった。――なのに、由布は・・・」
「だから、言ってるだろ。紘生(ひろお)佐登美のために、宮野の人間が集まる理由はないんだよ」
問答が面倒になったのか、慶藤が声を少し荒げた。
そのとき、至輝は気づく。慶藤の隣で夢中でパフェを食べていると思っていた佐登美は、硬い表情になっていた。相変わらずスプーンを動かしているが、あまり口に運ぼうとしない。
慶藤の言い分にも、大人たちの考え方にも納得がいかなかったが、佐登美にこれ以上聞かせたくなくて、至輝は黙った。
「――至輝は、徳美(なるみ)に会ったことがあるか?」
「挨拶だけは、何度か」
「佐登美のことは話題に出すなよ。あいつは紘家の跡継ぎだから、春日の裏なんて深く知らなくていいんだ」
「なんで、」
「徳美に限らず、不用意に佐登美のこと話すなよ。――いい加減、解れよ。これが由布と佐登美を守る手段だって」
慶藤は普段大人をばかにしたような目で見ているくせに、こんな時は大人みたいに酷いことを平気で言う。
うなずけない。
だって佐登美は必死に聞いていないふりをしているのがわかるから。
絶対に、これ以外の手段があったはずだと思うから。
慶藤は頭がいいはずなのに、どうしてそんなこと気づけないんだろうと、祈るような気持ちになる。
「慶藤」
その先に言う言葉が定まらなくて、発音が不安定になる。慶藤がその小さな揺れに気づいて、わざとらしく視線を逸らす。
その態度すべてで、もう何も言うなと言っていた。
その態度に、体の中の何かが不快にうごめく。
「ふじっ、」
泣きそうな、裏返った声が出た。
慶藤はこちらを見ていない。佐登美が服にこぼしたクリームを拭いてやっているところだった。
「なぁ、」
慶藤が呼びかける。それは佐登美に対しての呼びかけで、佐登美が顔を上げた。
「由布のこと、好きか」
「んー・・・?」
佐登美はくすぐったそうに、――笑った。
慶藤は笑みを返し、佐登美の頭を撫でた。
*
誰だって、死ぬのは嫌だろうと思う。
でもこの状況を、紘生佐登美はいったいどういう気持ちで受け止めているのかは見当がつかない。
慶藤は繋いだ佐登美の手を握り返した。冷たかった。
すぐ後ろを至輝がついてくる。俯き、何も言わない。
すでに面会の時間も過ぎ、廊下は場所によって薄暗い。病院特有の重苦しい空気が、夜の帳に力を貰ったみたいに、その重さを増していた。
宮野由布の病室は、まだ見つからない。
至輝の様子に結局慶藤が折れたが、彼女の病室を探す手がかりなんて無いに等しい。
慶藤はこの広大な病院の詳しい構造を理解しているわけではないし、大人たちの会話の端に探すヒントとなるようなことはほとんどなかった。
至輝は闇雲に探そうとする。こういう、一つも頭を使わずに行動することが、慶藤には我慢ならなかった。
知恵を絞った結果、いくつか候補をあげた。これでも慶藤は気に食わなかった。答えが一つになるはずのものは、計算で一つに絞りたいのに。
薄暗く長い廊下を歩く。
珍しく、至輝は文句一つ言わない。佐登美はこういうとき絶対に駄々をこねるようなことはしない。
「由布」
違和感を口の中で転がす。しかし佐登美は、疑問すら抱いていない様子で顔を上げる。
「疲れないか?」
「だいじょうぶ」
佐登美の反応が、怖い。ここでどんな答えが返ってきたって、この恐怖は変わらないと思う。
掴んで潰そうとしても、不安は手をすり抜けてまとわりついてくる。さらなる不安を打ち消そうとして、佐登美の手をぎゅっと握る。
「至輝は?」
「平気だ」
至輝の答えに、慶藤は軽く笑みをこぼした。
「言いだしっぺが一番に脱落すんなよ」
「わかってるっ」
こういう反応を見ていると、なんだかほっとする。至輝がここにいることを、実感できるような気がするから。
主を失おうとする影はどれほど不安なのだろうかと思う。それと同時に、至輝がいることに安堵する。
それは自己嫌悪への入り口だ。
佐登美を通して、自分の安全を確認したのだから。
*
きっと、過程も理由もどうでもよかったのだろうと思う。
必要なのは由布の立場と名前であり、それが佐登美に入れ替わったところで大人たちは構わないのだ。
由布の病室に入ったとき、至輝はようやく理解した。
慶藤が言おうとしていた部分も、なんとなくわかった。
「由布、」
ためらいがちに呼ぶ。
小さな体は反応しない。穏やかとは言いがたい呼吸が繰り返されるだけ。
機械から何本ものチューブが、布団の中へと伸びていた。隠されているけれど、これが由布の小さな体に刺さっているのだ。
それを認識したとき、至輝は無意識のうちに後ずさった。
憐憫よりも、恐怖があった。何が怖いのかはわからなかった。漠然としていて、だからこそ取り除けない。
「由布」
佐登美がその名を口にした。偶然なのか反応したのか、由布の体がぴくりと動く。佐登美は至輝の感じている恐怖なんて見えていないかのように、臆することなく由布の傍らに行き、小さな手と手を重ねた。
「由布、起きて」
その言葉に答えるように、重たくまぶたが持ち上がる。だがうつろな目が誰かを見ることはなく、再び静かにまぶたが下りた。
「おまえは、何も言わなくていいのか」
慶藤が隣で、硬い声で言う。
「由布を由布と呼べるのは、たぶん今が最後だ」
それはとても恐ろしい言葉であって。
慶藤がどうして口に出来るのか、至輝には信じられなかった。
由布の周りには大人たちもいたが、由布を案じているのは自分たちしかいない。それはわかっている。けれど――あまりにも酷すぎる。
「紘家には連絡してある。もうすぐ来るはずだ」
「――宮野の家の様子はどうだって?」
「奥様が取り乱したらしい。――無理もない」
「お気の毒ですが、しかたありませんからね」
無機質な会話が、病人の枕元で交わされる。潜めた声だが、酷く耳障りに響いた。
ここで話すな、と怒鳴りたかった。
理由が上手く説明できそうにないから、怒鳴れなかった。
病室の隅の椅子に深く腰掛け、うなだれる。いらいらとした気持ちを、拳を強く握ることで我慢する。
慶藤が至輝のそばを離れ、由布のベッドへとゆっくり歩いていった。佐登美の背後に立ち、彼女の頭越しに手を伸ばしてベッドに手をつく。
「佐登美がいると思って、楽に死ぬのはやめろよ」
慶藤の声音は、強ばっていたけれど、優しい響きをしていた。
至輝は慶藤の発した言葉よりも、彼の様子にどきりとする。
周りの大人が、ぎょっとした様子で慶藤に視線を移した。慶藤は構わずに由布に語りかける。
「おまえが投げ出したら、それを背負うのは佐登美しかいない。――ふざけんなよ、もう少し先延ばししろ」
「慶藤、口を慎みなさい」
静かだが迫力ある咎めの声が響いた。慶藤が肩越しに睨み返し、病室の緊張感が一気に増した。
至輝は思わず席を立ったが、それ以上動けないし、何も言えない。それは他の大人たちも同じだった。
「いくら影役とは言え、言っていいことと悪いことがある。今のは悪いことだ」
「病人の枕元で無神経な会話してるあんたに言われたくねぇんだよ」
「慶藤!」
「反射で怒鳴るなよ、大人げってもんがないな」
ばちんっ、と音が響いた。ほぼ同時に、佐登美が小さく悲鳴を上げた。
細い慶藤の体がよろめく。――だが、反抗的な視線は健在だった。
「犠牲は仕方ないって言ったのはあんただったよな。そりゃそうだ、由布が死のうと、佐登美が死のうと、あんたは痛くもかゆくもないもんな。仕方ない、その一言で片付ければ簡単だ」
吐き捨てるように言う慶藤。その姿は、とても子供に見えない。
「春日がどんだけ違法なことしてようと、どこでどれだけ間者が死のうと、おれは構わない。――だけど由布にそれを背負わすのは間違ってる!」
かすかに、慶藤の吐息が震えていた。
佐登美がその傍らで泣き出していた。その様子を見かねた他の大人が、割って入る。
「感情的になるのはやめましょう。相手は子供ですよ」
「貴方には、これが子供に見えるか?」
「なら、なお更ではありませんか。言葉が正確に伝わる相手に対して、体罰は必要ありません」
「勘違いすんなよ」
仲裁を無用とばかりに、慶藤が声をあげた。
「そいつがやったのは体罰じゃなくて暴力だ」
「慶藤。事実との多少の食い違いは心の中で折り合いをつけて、穏便にことを運べなければ、貴方はまだ子供よ」
「そいつに言ってやれよ。大人げないったら。おれはまだ子供なんだから」
「そうね。では慶藤。あなたは子供だから、邪魔になるの。佐登美を連れて退室なさい。――若様も、申し訳ございませんがご退室ください。大丈夫です、姫様になにかありましたら、すぐお知らせします。隣の部屋で、お待ちください」
慶藤が、今にも噛み付きそうな雰囲気で相手を睨み付ける。
だが反論はしなかった。泣き顔の佐登美の手を無言でとり、至輝を視線で促した。
至輝は慶藤の背中を追って病室を出た。
後悔している。
あの時何も言えなかった自分を、恨んでいる。
至輝が何か言うべきだった。病室でそんな会話をするなと。言葉にならなくたって、叫べばよかったのだ。
叫べない至輝に代わって、慶藤が叫んだ。
あのあと、慶藤は隣室に入って、すぐに泣き出した。
声を押し殺して、手で顔を隠すように陰を作って、部屋の隅で長いこと泣いていた。至輝は何か声をかけようと慶藤の傍らに行ったが、結局何も言えなくて、一緒に泣いた。