05−



 本の表紙をめくる。
 そこには、学士自身が書き溜めた知識が詰まっていた。分厚いそれは、すでにほとんどが知識で埋められ、装丁も長旅の間に劣化している。
 そこから少し離れた場所で、こどもたちが遊んでいた。
 ウマのこどもにとって、走ると遊ぶは同義だ。
「あっ、まって、ニキがこけた!」
 ウマの少女が立ち止まり、後方を振り返る。少年たちは露骨に顔をしかめ、一度止まるが足踏みをやめない。
「うわ馬鹿!」
「もういいじゃん、行こうよ」
「えー・・・」
「はやくー!」
 少年たちが先に行き、ウマの少女もトリの少女を急かす言葉だけかけて走り始めた。
「あー、まって・・・」
 地面に伏せたトリの少女は、眉を情けなく下げるが、すでにウマのこどもたちの姿は遠い。
 学士はそこまで見て、視線を本へと落とした。長旅の記録に、時には思い出が蘇り、時にはそこから新たな発見をする。
 足音が近づいてきた。やがて本に影が落ちたので、学士は顔を上げる。
 そこには、隊長の妻がいた。
「今日は読書かい。せいがでるね、学者さん」
「ああ・・・どうも」
 学士は本をたたみ、会釈した。
「本なんて持ち歩いてたのか。重たいのに、よくもまあ」
「私が書きとめたものです。意外と軽いので、持ち歩きもそれほど苦には」
 学士は女へ、本を手渡した。女は興味深くその表紙をめくる。
「薬草の本かね?」
「それが主です。旅先で困らないように、学問所で可能な限り写してきました。あとは旅先で得た知識を書き留めています」
「ふうん・・・それのおかげで、うちの隊長が助かった、と」
「大したことはしていませんよ」
 学士が微笑む。女は本を返しながら、一瞬言うのをためらった。学士が首をかしげる。
 女の視線は天幕の群れよりもさらに向こう、これから行く先のほうを向いていた。表情は険しく、迷いがある。
「・・・・・・なあ、先生。隊長はもう動いて平気だと思うかい?」
 その問いに学士は面食らった。
「それは・・・自分の足で、ですか?それは厳しいです。いくら強靭なウマの足でも、いくらあの方に体力があっても、もうしばらく様子を見たほうがいい」
「本人が動くと言っている。これ以上、遅れるのは嫌だと。止めたいところだが、先に進みたいという気持ちは私も一緒でね。もともと一ヶ月ほど予定から遅れているんだ、帰還が遅れるのは望ましくない」
「しかし一月程度なら、問題ないのでは?イグナシオからの距離と隊の規模を考えれば、それくらいの誤差は・・・」
 説得を試みる学士に、女は首を横に振る。
「うちは普通の隊商じゃないんだ。最初に言っただろう、イグナシオの第二隊商だって」
「申し訳ない、商業連合には詳しくないので・・・」
「ああ、そうか・・・・・・うちの隊商は陛下のものなんだ」
「陛下というのは・・・イグナシオの国家元首?たしか商業連合を束ねる御方だと」
「そう。つまりわたしたちは商業連合を代表する隊商なんだ。商売での利益よりも、行路の確保や、商品の売り込み、現地で何が必要とされているかの市場調査、そういうのが本来の目的でね。連合の商業会議に間に合うように帰り着きたい。もちろん、しっかりと報告できるだけの成果をもって」
 学士は、目の前の相手が事情通であったことを深く納得した。
「・・・事情はわかりましたが、しかし・・・」
 学士はその先を言わなかった。女も難しい顔のまま黙り込む。
 頼りない足音が、無邪気に沈黙を破った。
「ねー、みんなはー?」
 なんの穢れもなく、トリの少女が笑っている。
 女は難しい顔をすぐにやめた。
「ん?あっちに行ってたじゃないか。どうした、あんたも見てただろ」
「んー・・・?」
「まあったく、仕方ない子だね。天幕の中にいな、もう昼になる」
「はーい」
 少女は素直に天幕へと走っていく。その姿はよろよろと不安定で、不恰好だ。
「あの子は、」
「ん?」
 少女を見送っていた女は、学士の声を聞いて振り返った。
「あの子は、何を探しているんでしょうか」
 学士は真剣に問い、女は苦笑した。
「ああ、――あの子が、何か言った?」
「名前も顔もわからない相手が、己を待っている、と」
「うん。おそらくだけど、あれはトリの本能だ。ワタリドリのね」
「行くべき時、行くべき場所、風知らせる、――というやつですか?」
 それは旅する〈ワタリドリ〉が行き先を尋ねられたときの答えだ。
「そう。それを勘違いしてるんだよ。行くべき場所を、待っている誰かだとね。翼だけじゃなくてその感覚もイカれているらしい」
「じゃあ・・・」
 学士はその先を言葉にしなかった。
 女も、あえて知らないふりをした。
「確かあんたも、半分はトリだったね。わかるんじゃないか?」
「いえ・・・フクロウは渡らぬトリですから、そういうのは」
「そうか。――行こうか。どのみち近いうちに出発する、準備しないとね」
 乾いた風が吹き、土ぼこりが舞う。
 行く先はひどく霞んでいた。






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