No.002_37








 監禁されていた部屋を出た瞬間、マナが悲鳴を上げて前のめりに倒れた。走り始めようとしていたところだったから、かなり派手に。
「マナ!」
「・・・・・・っ!」
 マナが顔をしかめ、頭を抱えながら起き上がる。
「くそ!エウノミア!」
「マナ、なにがっ」
「エウノミアから拒否された」
 何が、と問うまでもない。五感の〈共有〉だ。
 起き上がるマナに手を貸しながら、焦燥に駆られて問う。
「拒否って、なんで」
「私が、さっきの運送屋を〈攻撃〉したからだよ。よりにもよって、この〈共有〉を武器にしたから、エウノミアが動揺してる」
「動揺?!」
「だめだ、できない」
「じゃあ・・・・・・」
 マナが〈共有〉の能力を使えなければ、昨日街中でやったような的確な逃走ルートを選べないということだ。そうでなくともこの狭い建物の中で、どれだけ逃げ場があるのだろうか。アキハルは青ざめる。
「・・・地下道には、逃げられないかな」
「どうだろうね。どういう順路だったか覚えてないよ。でもとにかく、時間稼ぎが必要だ。下りていってみよう」
「時間稼いだらなんかあるのか?」
「ササたちが動いてる。君のお友達も動いてるよ。彼らが舞台を整えるから、それを待って、私が得た情報をぶちまければいい」
「友達・・・?」
 アキハルはふと先ほどの夢うつつで見たものを思い出す。
 同じ開拓団に属するはずだった、リッセとクオン。彼らがなぜか、クロスアウダ情報局の面々とともにいた――
「ぶちまけるって、・・・マナは何を知ってるんだ」
「・・・・・・後で言う。逃げるのが先だ」
 二人は地下へと下り始めた。
 人の気配を感じては身を隠してやり過ごし、下を目指す。
 時折マナが悪態をついた。〈共有〉ができないからだ。エウノミアが動揺から立ち直れないらしい。
 背後から走って近づく足音が聞こえてきた。足音を大きく響かせない、武人の走り方だ。背筋を這い上がってくる危機感に押されて走るスピードを上げる。
 廊下を走って階段、また廊下。
 ちらりと背後を確認すると、二人の姿が見えた。
 じりじりとその距離が縮まる。角を曲がればその脅威は一段と近づく。
 おい、止まれ、と罵声が響く。
「アキハル、あっち!」
 マナの示したドアの向こうには人の気配。
 あの先に出れば、――と思った、その瞬間。
 どんっ、と鈍い音がして、半歩先を行っていたマナが倒れた。
「マナ!」
 あわてて止まって、迫る敵からマナをかばう。
「アキハル、先行って」
 つらそうに顔をゆがめ、額を押さえている。
「マナ!」
「さてさて、そろそろ鬼ごっこは終わろうか?」
 日によく焼けた肌の運送屋が軽く息を切らせながら、歩いて近づいてきた。
「アキハル、行って」
 断続的に痛みがあるのか、マナは痙攣するように表情を引きつらせる、
「大丈夫だから」
 言葉は力強い。
 彼女を信用して一人でこのドアを開けて、助けを呼べばいい。
 敵と目を合わせたままゆっくりと立ち上がり、――
「行かせんよ」
 男が木刀を振り上げた。
 背中にさっきを感じながらも、瞬発力を総動員してドアに飛びついた。
 ざわり。ドアの向こうの平和な世界の住人には、飛び出してきた二人の男に対して理解が及ばなかったに違いない。
 アキハルが開けたのは、市民が手続きのために集まっているロビーに続くドアだった。近くのベンチに座っていた老婦人が驚いて悲鳴をあげた。
 アキハルは出てすぐに、勢いあまって派手に転んだ。
 立ち上がる暇はない。振り返れば、男は悠然とした足取りでアキハルに近づいてきているところだ。
「もうあきらめな」
 ぎらぎらと、木刀の切っ先が敵意を主張する。
 アキハルは混乱していた。なぜこの男は悠然としているのだ。ここにいる一般市民は荒事に慣れていない。彼らの目からは明らかに凶悪な木刀を持つこの運送屋こそ悪者に見えるはずだ。
「サトミ・アキハル。開拓団のリーダーの地位にありながらそれを見捨てて、逃げ帰るなんて送り出してくれた市民に悪いとは思わなかったのか。ほかのメンバーに対して、罪悪感はないのか」
「は・・・・・・?!」
「白き大地の厳しさも、長旅のつらさもわかる。だが、これ以上逃げてどうなる。これ以上、お前を送り出してくれたものたちを裏切るのか」
「裏切ったのは政府の方だ!」
 思わず叫んでいた。
「運送屋が団を離れた!俺たちは必要な教育を受けさせてもらってない!全部政府が――」
「恥を知れ!まだそんな嘘で自分を正当化するのか?!」
「――っ!」
 あまりの怒りで、声が出ない。
 興奮のあまり、ぶるぶると体が震えている。必要な場所に力が入らない。
「もうあきらめろ」
 アキハルは、動けなかった。それを敏感に感じ取った運送屋は、アキハルから目を離して、周囲へと声をかけた。
「お騒がせをいたしました。すぐに退散いたします」
 市民と、市役所の職員たちが二人を見ている。
 アキハルは開拓団員だから、名前はよく知られている。今の運送屋のパフォーマンスは、明らかにアキハルを不利にしていた。注がれる視線が、突き刺さる。心臓が痛いほど跳ねている。
 運送屋が近づいてくる。
 けれどどうしていいかわからない。逃げることも、反論することも、思いつけない。
「ちょっと待てよ」
 静まり返っていたその中で、戸惑いながらも毅然とした声が響いた。
 アキハルと運送屋の間に臆することなく青年が割ってはいる。その人を、アキハルは知っていた。
「・・・・・・にぃ、」
 イーニィ。そう呼んだが、ちゃんとした音にならない。
 本来ならばアキハルたちとともに開拓団の一員として旅立つはずだった男だ。だが出発直前に体調を崩し、メンバーからはずされた。
 短く刈り込んだ銀色の髪に、小麦色の肌はこんなときでなくとも目立つ色の組み合わせ。筋肉が程よくついたすらりとした手足と上背は、運送屋相手でも見劣りしない。
「あんた、そんなものをこんなところで振り回して何のつもりだよ。相手が誰であれ、ここは街中だぞ。役所だぞ」
「物騒なものを抜いたことは詫びるが、あなたが後ろにかばっているのは、裏切り者だ。あなたを含めた、すべてのエウノミア市民を裏切ったんだ」
「こいつは俺の親友だ」
 一瞬のためらいもなく、イーニィはそう言い返した。
「こいつがここにいる理由は知らねぇけど、あんたが言うことが嘘だってことはよくわかってる。そんな物騒なもん持ってる運送屋はろくでもねーよ。――なあ、なんで俺に対してもそれを向けていられるんだ?俺は善良な市民だろ?」
 運送屋はイーニィを、目を細めて睨み付けつつ、木刀の切っ先を下ろした。
「信じられないのは仕方がない。でも、サトミ・アキハルが開拓団を放棄し、ここへ不法入国したことは事実だぞ」
 ばたばたと忙しなく足音が聞こえてきた。あっという間にアキハルとイーニィは武装した人々に囲まれてしまう。運送屋の仲間だ。総勢四人。その輪の外側には警察の姿まである。
「抵抗は無駄だ」
 アキハルはイーニィを見上げた。彼の表情に迷いは浮かんでいない。だが勝算もないに決まっている。――長い付き合いで行動パターンなどわかりきっている。
「意味わかんねぇの。素人相手に、なんでこんな警察やら運送屋やら出てくるわけ?アキハルにしゃべってほしくないことでもあんの?」
 計画性皆無のくせに、相手には痛かろう部分を指摘する。
 武装した男たちが、取り囲む輪を縮めた。
「え、これってマジヤバ?」
 イーニィがアキハルを振り返り見下ろす。
 アキハルは声が出なかった。そもそも言葉が見当たらない。
 運送屋が手を伸ばしつつ一歩大きく近づいてきたのを見た。だが、突然何者かの背中に視界をさえぎられた。
「待ってください」
 高くもなく、低くもない、弦をはじいた音に似た、心地よい声だった。
 アキハルの視界に映っていたのは、明るい苔色の長い髪。背は高いが、体つきはほっそりしている。だが、女性的というには体のラインにメリハリがない。
 アキハルたちを取り囲む男たちは明らかに動揺した。
 役所職員も、市民たちも、驚いている。
「エウノミア・・・・・・?」
 誰とも知れぬ呟きは、静まり返っていた役所内に妙に大きく響いた。
 それは、この都市を支える大樹の意識だった。
「私から、すべてを話しましょう」
 ヒトの姿を真似たエウノミアだが、口は動かない。けれど、その耳に優しく響く声がエウノミアのものであると、なぜか自然に理解できた。
「しかしそれには時間が必要です。私はこうしてヒトの姿を真似、ヒトの言葉を借りることはできる。けれど私はヒトではない。真実を言葉で語るには、今しばらく必要なのです。私が話せるときが来るまで、どうか待ってください。それまでの間、彼を、そして彼とともに来た者たちを、歓迎してほしいのです」
 周囲から注がれる視線から、不信感や敵意が消えていくのがわかった。代わって、未だに武器を収めない運送屋を非難するような空気がじわじわと広がった。
 警官たちはすでに警棒を収めて、直立不動の姿勢だ。
 しぶしぶ、といった感が否めないが、運送屋たちも刀をおろした。
「ありがとう。心より感謝します」
 硬く無表情だったエウノミアが微笑む。それは花がほころぶさまを連想させた。
 市民たちの素直な理解は不思議ですらあったけれど、同時に納得もできていた。
 普通、ヒトは生まれてから一生を都市の中で過ごす。生まれたときから樹の根元で、樹に守られて暮らしてきた。だから、きっと。
「サトミ・アキハル」
 弦をはじくような音で呼ばれ、のろのろと顔を上げた。
「本当に、よくぞ、戻ってくれました。あなたがたに危険を強いてしまったのは私の罪。私の過ちです。施政者たちを責めないでください。そして私に間違いを正す機会を与えてくれたこと、本当に感謝しています」
「エウノミア・・・・・・」
「今しばらく、時間をください。お願いします」
 異論はない。
 アキハルが首肯すると、エウノミアはほっとした。――表情は変わらないが、その感情の変化だけが伝わってきたのだ。
 エウノミアが膝をつき、アキハルへと手を差し出した。色白で、陶磁器のように見えた。木霊の仮姿には触れられない。そこにあるよう、見えているだけなのだ。だがアキハルは疑問もなくその手を握った。
 温かみは感じない。けれど、質感はあった。そんな気がした。
「ありがとう」
 エウノミアは再び微笑んだ。
 とたん、手の中の感触が消えうせる。
 同時に目の前にあったはずの姿も消えていた。






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