No.002_01


 井戸から汲み上げた水を洗面器に移した時に映りこんだ空の色に、驚いて天を仰いだ。
 滞在して一週間――、セルシャ市の空は濃く美しい空色をしていることに初めて気づいた。エウノミア市より空気の浄化率は高いという話は聞いていたが、こういうことなのかと実感する。
 洗面器に手をつけると、じわりと刺激がある。――水を汲み上げる際に、手の皮がすれて薄くなっていた。
 水を井戸から汲むという作業は、ここに来て初めて体験した。エウノミア市は水路のめぐるヴェニス種の都市で、清廉な水はそこらじゅうに溢れていた。それを貴重だと思ったことはない。言葉には何の誇張もない、そこらじゅうに溢れているそれに、ありがたみを感じろというのは難しい話だ。
 しかし水汲みという作業を毎日毎日繰り返すことを思うと、今更のようにありがたみが湧いた。運送屋たちが「ヴェニス種が基盤樹の都市は楽でいい」と口をそろえるのも今ならわかる。
 顔を洗い終えた水を側溝へと流す。這うように流れていく水は、エウノミアの風景とかけ離れていて興ざめだった。
 ため息をついたところへ、背後の建物――政府が管理する宿泊施設――から、人が出てきた。同じ開拓団に所属する、シェローという青年だ。歳は二十だが、屈託のない性格と丸みを帯びた顔のせいで実年齢よりずっと幼く見える。大雑把なたちで、中途半端に伸びた薄い金の髪も梳かされていない。開拓団の女性たちに一番世話を焼かれている彼だから、余計幼く見えるのかもしれない。
「今日はどうすればいい?」
 あいさつもなしに、シェローが言う。
 彼――アキハルは愛想笑いをし損ねて、苦笑で誤魔化した。
「昨日と同じ。誰か病院行ってヴィルジニの様子見て来て。他は運送屋をあたるように、みんなにも伝えてくれる?」
 昨日から望むような進展は何一つとしてない。やることは、昨日と何一つ変わらない。
 シェローがアキハルの指示を、中にいる団員たちに大声で伝えて回る。
 施設に滞在しているのは、今のところ自分たちの開拓団だけだ。いちいち注意するようなことでもないか、と思いとどまる。
 ため息をつく。悲嘆なのか、別の何かか。口からこぼれでた言葉に意味などない。それが喉を通り抜けた瞬間、無性に何かを殴りつけたくなった。
 握り締めたこぶしを解き額に当てて、空を見上げる。
 疲れている。――こういうことは、あまり自覚したくない。疲れたと思えば思うほど深みにはまって抜け出しにくくなるから。けれど、そろそろ我慢の限界なのも確かだった。
 シェローと入れ替わるように、中から団員の女性――アスカが出て来た。
「元気ないわねぇ」
 そんな顔でいられては迷惑だといわんばかりの口調だった。
 視線を合わせずに、その脇を通り過ぎる。
「寝られないからな」
「ホームシック?たった八日よ」
 アキハルは歩みを止めた。怒鳴ろうと思っての行動ではない。怒りは湧かなかった。ただ言葉が脳に達した瞬間に思考が停止して、同時に体の動きも停止した、それだけのこと。
 返答が遅れたのはたった半拍だ。
「――家を懐かしがる暇がどこにあるんだよ」
 使い終わったタオルを、アスカの手に渡す。
「俺は守護樹の様子を見てくる。セルシャ政府が、話があるって言ってたからユウセイに庁舎に行くように言っておいて」
「はいはい」
 相手の返答は聞いていない。
 重い足を無理やり早く動かして、その場を去る。






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