10 「夏嵐」(後)
奥の部屋のふすまを開け放った利一だったが、拍子抜けした。
そこには由布姫がいるだけで、先に行ったと思った現一がいなかったのだ。
「姫、ご無事ですか?」
「ええ。残念なことに」
彼女らしい返答に、内心眉を曇らすが、それでも安堵したことには間違いない。
「姫・・・、わたし一人では、姫を守りきれません。ここから移動しましょう」
「他の者はどうしたの?」
「いろいろありまして、・・・・・・うわあっ!!」
突然の背後からの攻撃を、利一はかろうじてかわした。
振り返った先に、さきほどと同じように鞘に収まった刀を構えた現一の姿があった。
「ぬるま湯につかって育ったわりに、いい反応しますよねぇ」
冷や汗が背中を伝う。その感触が、奇妙なほどに鮮明だった。
「げ、現一さん・・・あぶないもの振り回すのやめません?」
「こういうことになるから、武器を持っておけって、言われたはずっすよ?」
「こういうことにならないように、武器を持たないんですよ」
「持たなくたってなってるじゃないっすか。だいたい若頭、暴力沙汰で停学くらったんでしょ?今更暴力反対ですか?」
「ええ、そうです。武器を持ったら、暴力沙汰どころか殺人になるかもしれない。だから、そうなるから、武器を持つ自分が嫌なんです。――っつかなんで停学の事知ってるんですか」
「春日の者に対して、それは愚問っすよ」
すらり、と刀が鞘から抜き放たれる。
薄暗い部屋で、その存在を主張するかのように刀身が光る。
「まあ、――そんなことはどうでもいい。どいてください」
「・・・嫌です」
利一は由布姫を背後に庇いながら、一歩後ずさった。
「世の中、単純な人間ばっかだと思うのは止めたほうがいいっすよ。若頭が背中に庇っている御方は、本能のままに生きようとするあなたとは違うんです」
「何が違うって言うんですか!」
叫んだ瞬間、刀が横に薙ぎ払われる。目の前を切っ先が掠める。
歯を食いしばる利一に、冷たい声と視線が降って来る。
「欠片も理解できないなら、なお更です。それは偽善にしかならない」
利一は、現一を真っ直ぐ睨み返した。
何が違う?――そう、もう一度言い返したかった。それなのに、雰囲気に圧倒されて声が出ない。
現一が、冷たい表情のまま息をついて、腰に差してあったもう一本の刀を外した。
がしゃん、と利一の目の前に刀が投げられる。
「・・・なんのつもりですか?」
利一は眉をひそめた。
「その刀、お貸しします」
「使えません」
「それは、生きることを放棄するって意味になるんすよ」
現一が刀を振り上げた。
逡巡、――する暇はなかった。利一は刀を掴み、現一の刃を受止めた。
攻撃が、ぐっと腕に重くのしかかる。現一はフジと同じくらいの身長のはずなのに、フジの攻撃よりずっと重い。
競り合うが、劣勢は明らかだった。
「生きるつもりなら、抜いてください」
低い声が、鼓膜を震わせる。――その殺気に、背筋が凍る。
気合の声と共に、どうにか刀を押し返したが、現一は間をおかずに攻撃してくる。
背筋を伝う汗を感じながら、ギリギリのところで避け、受け流す。重い攻撃に、手がしびれてくる。握りなれない真剣の柄に戸惑う。
現一が苛立ったように、ぐっと刀に力を入れた。
次の瞬間、利一の手は宙を掴んでいた。――重い音を立てて、刀がたたみに落ちる。
同時に、目が眩むような痛みを感じた。
一瞬の間の後に、利一はたたみに倒れこんだ。
「もう終りですか、面白くもない」
現一の声が降って来る。
息を整えようと、大きく肩を上げたとき、胸に鋭い痛みが走った。――先ほどと同じ痛み。
利一は、胸をぐっと掴んで、現一を見上げた。
「・・・・・・・・・おれは、」
息が詰まる。だが視線は逸らさない。今弱みを見せれば、斬られる。
現一がゆっくりと刀の切っ先を、利一の目の前に下げた。そして手首を返したかと思うと、――切っ先を、利一の頬へ滑らせた。
「抜け。――後ろに守る者があるなら、生きる意志があるなら、あなたはそれを抜くべきだ」
一瞬の痛みの後、頬を血が這って落ちていく。
次は、首を落とされる。
直感的にそう思った。思ったときにはもう、刀を掴んで立ち上がり、抜き放っていた。
「・・・・・・おれはっ・・・!」
突きつけられた切っ先を抜きざまに払いのける。
その瞬間、現一が微笑んだ。それまで反撃する隙を与えてくれなかった彼が、無防備だった。
それに対する驚きと、胸に走る鋭い痛みに、利一は動きを止める。
利一は抜き放った時の体勢からゆっくりと刀を下ろし、たたみに刺した。
声が震える。
「おれは・・・生きるけど、・・・・・・武器は・・・いりません」
現一が目を鋭く細めた。
「ふぅん――そりゃあ、残念です」
現一が刀を振り上げた。
そして、振り下ろすことには何のためらいも無く。
後悔が頭を掠めた。けれど胸の痛みにかき消された。
ふらり、と一歩後ずさる。
刃が間近に迫ったその時。
「姫!利一さま!」
現一が上体を捻りながら振り返る。避けたそこへ、刃が鋭く軌道を描いた。だがそれは、声の主の仕業ではない。彼女――徳美は、すでに由布姫の傍らへと駆け寄っていた。
現一はすぐさま構えなおし、切りつけてきた相手――フジへと斬りかかる。
「おれとやって勝てんのか、フジ」
競り合う刀へ力をこめる現一に、フジは力負けしながらもにやっと笑って応える。
「そんな必要ない。――現一、じじさまからの命令だ。利一の判断に従えってよ」
「ほう?」
現一の力が弱まった。フジはそのタイミングを逃さず、現一の刀を払いのけ、そして自分の刀を鞘へ納めた。
「当主たちもじじさまも悪趣味でさ、おれたちにここまで苦労させて、結局やりたかったのはトシの行動観察だってよ。おれはトシに決断させるためにここへ来たんだ」
現一から、攻撃的な雰囲気が一気に消え去った。
「・・・・・・なるほどね。やられたフリして、舞台と役者をそろえたってか」
その声から、現一の心理を推し量ろうとしたが、利一には無理だった。安堵とも、悔しさとも違う、あえて言うなら静かな悲しみが残っていたような気がした。
現一が刀を鞘に納めた。
目を閉じて、軽く息を吐き、――次に彼が目を開けたときには、いつもの飄々とした雰囲気になっていた。
「ま、そゆことなら、やめましょ。――って言いたいんだけどよ。まあこれだけ確認させてくれ」
現一は真っ直ぐ由布姫を見つめていた。
「姫、死にたいんでしょ?」
由布姫が、一つ瞬く。何一つ表情を変えずに。
「そうね。あなたが殺してくれるの?」
「待ってください!」
利一はとっさに叫んでいた。痛む胸を押さえながら、必死に息を吸い込んだ。
「佐登美さん・・・!・・・あなたは、生きていたいはずです・・・!」
由布姫が――佐登美が利一を見ていた。
問いかけるようなその表情に、利一はゆっくりと頷いてみせる。
佐登美は、目を閉じて息を吐き出した。
「・・・・・・そうね」
利一は安堵して座り込んだ。
佐登美の傍らで、徳美が安堵に泣き崩れた。
フジが、労うように利一の背中をぽん、と叩く。
現一が、利一が使った刀を拾い上げて鞘に納めた音で、利一ははっと振り向いた。
「――んじゃ、おれ帰って寝ますんで。いろいろすんませんでした、若頭」
軽く頭を下げられ、反射的に下げ返す。
現一はそれも見届けずきびすを返し、何事もなかったかのように去っていった。
フジがその背中に呼びかける。
「おい現一。トシに刀向けた事、じじさまに報告すっからな」
好きにしろ、と気だるげな返事だけが残った。
徳美がフジの傍らに、不安そうな顔でやってくる。
「フジ・・・わたしが言うのもおかしな話ですが、じじさまへの報告はやめてください。下手をすると現一どのは切腹です」
「ったく・・・、相変わらず死にたがりだな」
それを聞いたとき、利一の中にもう一つ安堵が訪れた。――現一も、死なずに済んだ。
無意識のうちに、安堵の息をつこうとした。
だが、激痛に阻まれて、がくっとたたみに前のめりに倒れた。
「フジ・・・っ」
詰まる息の合い間に、必死でフジを呼ぶ。それなのに、大きな声にならない。
「なんだ?――トシ、どうかしたのか?」
怪訝そうにフジがしゃがんで利一の顔を覗き込んできた。
「・・・・・・さっきから、息したら、そのたびに、胸が痛いんだけど・・・・・・」
「現一に何かされたのか?」
フジの声音が真剣なものに変わる。
「いや・・・そんなんじゃなくて、やり合ってる途中から、だんだん・・・息が・・・」
「徳美、弓弦を呼んで来い」
「はい」
一つ返事を残して、徳美の足音が遠ざかっていく。
「トシ、横になれ。そんなにやばいのか?トシ・・・トシ?」
息が、苦しい。それ以上に、痛い。
意識ははっきりしていたが、それ以上周囲を認識する余裕はなかった。