O8 「夏嵐」(前)






 湯浴みを終えて部屋へ戻る途中の廊下から見た外はすでに濃い闇に包まれていた。雨は姿を見せず、その音だけが響いてくる。
 じっと闇を凝視する利一の背後で板の軋む音がして、声をかけられた。
「利一さま」
「敬称略でお願いします」
「若頭」
「却下」
「と・・・・・・と、と、とととと利一」
「だれの名前ですか、それ」
 笑いながら振り返る利一の視線の先に、徳美がいた。相変わらずの袴姿である。
「湯加減はいかがでしたか?」
「別に。悪かったところで徳美さんが気にすることじゃありませんよ」
 やり取りが面倒で、利一は適当に答える。
 徳美は深く問うことはせず、利一と同じように闇の向こうへ視線をやった。
「・・・紘生佐登美は、あなたの妹なんですか?紘生徳美さん」
「・・・・・・戸籍上はそうですが、妹だと思ったことはありません。共に暮らした記憶はあまりありませんので」
 徳美は事務的に答える。
「ふうん・・・・・・春日の人間は、みんな姫のことを知っているんですか?」
「いえ、この屋敷にいる者に限って言うのでしたら、フジより若年の者は知りません」
「じゃあ、透は知らない?」
「ええ。じじさまと、宮野の旦那さまが秘匿としろと」
 フジは今年二十歳、透は利一と同じく十八歳である。たいした差があるとは思えないが、ラインはそこに引かれているらしい。
「・・・・・・、どうして、紘生佐登美が由布姫を演じ続けてるんですか?」
 それが大きな疑問だった。
「はじめ・・・由布姫がお亡くなりになったとき、奥さまが乱心なさったそうです。それで奥さまは、佐登美を由布姫だと思い込んで育てました。旦那さまも、じじさまも、奥さまを哀れんで、表向きには由布姫が死んだことは知らされませんでした」
「だけど奥さまは二年も前にお亡くなりになったって聞きましたけど」
「そうです。二年前も、それ以前にも、彼女を佐登美に戻す機会はあったのにそうしなかったのは宮野と春日の、大きな間違いです」
 徳美は一呼吸置いた。
「大きな家にはありがちな話ですが、この宮野にも分家との争いがあります。あちら側に、姫は本物ではないと知られることになれば、本家は大きな不利益を被ります」
「不利益?」
「由布姫がいなくなることで、分家へ流れる資金が増えるとでも、説明しましょう。詳しいことは、わたくしも存じ上げません」
「金の問題ってことですか?」
「それもあります。もっとも、それ以上の事はわたくしには理解しかねます。フジなら、詳しくご説明できるかと思うのですが・・・」
「いいですよ、わかる範囲で」
 むしろややこしい事を言われても、頭がついていかない。
 徳美は言葉を捜すかのように慎重に口を開いた。
「・・・由布姫がお亡くなりになったのは十一年前。本家は十一年間分家を騙していたことになるのです。騙していたことが知れると面倒だから由布姫には『今』病死してもらいたいという思いがあっても、不思議ではございません」
「なんっか・・・どろどろですね」
「そうですね。幻滅しましたか、この春日と宮野に」
「いえ・・・そりゃ確かに驚いてますけど。でもこれだけ冷静にいられるってことは、おれは別にここに理想を持ってたわけじゃないんでしょうね」
 苦笑交じりに利一は言う。
 徳美は語り終えた疲れからか、かすかに笑って息をついた。
「それはよかった」
 彼女はおもむろに腰に下げた脇差を一本抜いた。
「利一さま」
 脇差を差し出す徳美に、利一は怪訝な視線をぶつけた。
「なんですか?」
「フジから預かって参りました」
「おれは武器を持ちません。人を斬ったことなんてないし、斬りたくもない」
「ええ。ですが、その当たり前が通じない場所もございます」
 利一は徳美の手から脇差を取り上げると、それを投げ捨てた。
 徳美を睨みつける。
「何度でも言ってやる。――ここはおかしい」
 徳美は目を逸らさなかった。利一に睨まれたところで、彼女にとっては怖くもなんともないのだ。
「利一さま。武器は人を斬るものではございません、己を守るものにございます」
「なんで武器が無いと生きていけないんだよ!」
「それは・・・・・・」
 徳美が言いよどむ。
 すぐに答えられない程度の価値しかない武器ならば、捨ててしまえばいい。
 利一が言葉を重ねようとしたときだった。
 ――怒号。
 それは、聞きなれた声だった。
「フジ・・・?!」
「利一さま、これはお守りです。抜かなくてもいい、――ですからお願いします。持っていてください」
 徳美は再び脇差を利一に押し付けると、廊下を走り出した。








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