O7 「氷雨」(後)
雨が降り出していた。夏の嵐が運ぶ雨は性急で、初めから激しく地面を叩く。蝉は、鳴きやんでいた。
縁側を通り、ふらふらと由布姫の部屋までの道をたどる。
ポケットの中で、携帯電話が振動した。サブディスプレイを見て驚く。
「――もしもし、どうしたんだよ?」
『うっわよかった、出てくれた!』
「電話くらい出るさ。なんだよ、うちに来たらしいじゃん。ごめんな、おれ留守で」
『いやいやいやいや、なんつーか・・・メールとかしにくくってさぁ、なんにも言わずに行ったおれも悪かったんだよ』
「メールするほうが簡単だろ。変なやつだな」
『うん、まぁ、変かもしれないけどさ、・・・その、ちゃんと謝ろうと思ってさぁ。それなのに春日、補習も出てこないし。卒業できるのか?』
「卒業かぁ・・・まじでやばいな」
『春日、相変わらずのんびりしてんだな』
「おまえにだけは言われたくねーよ」
『ははっ、違いねーや。――どっかしたのか?妙にツッコミが甘いけど』
「・・・まぁ。慣れない環境でいろいろと」
『どこにいるんだよ』
「親戚んとこ。――なぁ、島崎」
『ん?なんだ?』
「おれ、高校辞めるかも」
『え、ななな、なななに??急に何!おれと色々あったから?!』
「違うよ。そうじゃなくて・・・・・・――あ、ごめん、人が来た。またメールかなんかする」
『ええええっなに重大発言したくせに放置プレイ?!まてまてまてっ、春日おまえは親友にそんなひどい仕打ちを平気で――』
ぴっ、とあまりにあっさりした音で、外との線は断ち切られてしまう。
廊下の向こうに目をやる。そこには百家の萩子の姿があった。まだこの屋敷にいたのか、と思う。
道場へ向かうこの廊下と、お盆に載ったお茶から、透が貰ってくると言ったお茶を運んでいるのだと思われた。
すれ違う前に、口を開く。
「至輝さまならもう自室へお帰りになられたと思いますよ。お茶ならそっちに・・・」
親切のつもりだった。それなのに、萩子はお盆ごと、利一に投げつけてきた。コントロールが悪かったのか、それは利一に直接当たらず、廊下にぶつけられた。ガラスが飛び散る。
「なにすんだよっ――」
「近寄らないで!」
金切り声で叫ばれた。さらに萩子はきつい目で睨みつけてくる。利一は反射的に怒鳴り返していた。
「――っ、おれが何したっていうんだ」
「何をした、ですって?笑わせないで!春家がどれだけのことをわたしたちにしてきたか!」
「なんで春家だ百家だって、そういう括りでしかものを見れないんだよ!」
「そう見てるのはそっちでしょう?あっさりとわたしに命令できるのはなぜ?母に向かって百家の者に触られたくないと言ったのは誰?――ほら、何か言い返せますの?!」
「・・・・・・っ、」
思わず言葉に詰まった利一を見て、萩子はあざ笑う。
「何も知らないくせに、どうして自分の正しさを主張できますの?理解に苦しむわ」
「おれは確かに春日を知らない。知らないことが多すぎる。自分が正しいかどうかもわからない。でも春日は何かを間違ってるってあなたも思ってるんだろ・・・?!」
「思っていたらどうなるというの?仲間だとでも?」
「それは・・・・・・」
「ほら。あなたは軽い言葉しか吐き出せないのだわ。――そんなあなたと一緒にしないで」
言葉を重ねたって、何も通じない。よく似た主張をしているはずなのに。
「・・・一緒にされたくないのはお互いさまだろ。どうせそこから逃げる気もないくせに」
「あなたにっ、何がわかる!」
ぐっと萩子がつかみかかってくる。利一は避けない。
「春日を知らないあなたに!外から来たあなたに!・・・っ、一体何がわかると言うの・・・!」
萩子が手を振り上げた。また殴られるのか、とどこか冷静に思う。なぜか彼女のそれを、避けようとは思わなかった。
だが萩子の手が利一を打つことはなかった。
風を切る音――そして二種類の金属音があった。
「なにやってるんだ」
萩子の視線がぱっと逸れる。それを追った利一の目に、廊下の向こうからやってくる現一の姿が映った。
「現一さん・・・?」
「シュウ、茶も持ってこずになにやってんだよ」
彼は厳しく、詰問する。萩子は現一を睨みつけた。
「・・・・・・っ、あなたには関係ない」
「あほ。――若頭も、ちょっと鈍いんじゃないっすか?その目、節穴っすか?」
現一が廊下にかがんで、何かを拾い上げる。現一の手に乗っていたのは、細い針だった。
「針・・・?まさか、」
「何を塗った、シュウ」
「死んだりしないわよ」
「嘘つけ。――春家の者を本気で狙うとは、ずいぶん度胸がついたようだな。ばれたら切腹だぞ」
「なんで邪魔するの」
「死ぬ覚悟がないやつに、死に場所をわざわざやることもなかろうて」
「・・・みくびらないで。覚悟ならある」
「あほ」
言葉と同時に、彼は手を上げている。体格のいい現一の平手は、あっさりと萩子を廊下に叩きつける。
「えっと・・・助けてくれたんですか?」
「いえ別に。透からおもちゃをもらったもんで、使ってみたかっただけっす」
「おもちゃ?」
「見えませんでした?これ投げて、針を落としたんすよ」
現一が懐に手を突っ込んで、なにやら取り出す。彼の手の上には豆粒大の、角ばった金属がいくつも乗っていた。
「・・・・・・鉛のつぶて・・・、暗器ですね」
「暗器の類は三家の得意分野っすからね。透は剣道よりむしろこっちの扱いのほうがうまいっすよ」
「はぁ・・・人生何に助けられるかわかんないもんですね・・・」
「はははははっ!人生万事塞翁が馬ってね。――何に殺されるかもわかんないっすよ」
一瞬だけ――現一の瞳が獰猛に光る。
それを見て、利一は理解する。彼は七割がた本気で、武器を使ってみたいがために利一を助けたのだ。残る三割は、萩子に言い放ったとおり。
「・・・・・・なんでよ・・・?」
その呪いの言葉は、萩子の口から出たものだった。
ふらり、と萩子が立ち上がる。
「シュウ、」
「なんでよ?死ねばいい。春日なんて消えればいい。現一だってそう思ってるくせに、なんでそいつを殺さないの!何で邪魔するの!」
「おれは春日がどーなろうと興味がないだけさ。それに言ったろ。覚悟がないやつに死に場所はやらねー」
「死んだっていいわ。どちらにせよ、ここから出られるのよ・・・!」
萩子がはっきりと恨みのこもる視線を利一へとぶつけた。怯む利一をよそに、彼女は帯の間に挟んでいたらしい、短刀を取り出して抜き放った。
「あ、やば。若頭、下がったほうが・・・」
危機感のない現一の声が聞こえる。
「げ」
萩子が抜き放った勢いそのままで、短刀を振るう。
幸いだったのは、萩子よりも運動能力が勝っていたことだった。三度なぎ払われた短刀は、一度として利一を傷つけなかった。
萩子は一度攻撃の手を休めた。そして間合いを確かめるように利一との距離をじりじりと詰めてくる。
「ちょっと待てって・・・っ、どーしろってんだよ・・・・・・っ」
蒼白になりながら、利一は避けるための足場を確かめる。
現一は何を思っているのか手を出してこない。さっきは利一を助けたというのに――いや、本当は萩子の方を助けたのかもしれない――、つくづく底の知れない相手である。案外、おもちゃを使ってみたかっただけと言うのは本当かもしれない。
萩子の姿勢が、定まった。――一瞬の気の高まり。間合いを越えた瞬間だった。
萩子が振り上げた短刀を斜めに切るように振り下ろした。
空を切る音。
それを聞くと同時に、利一は左足で前へと踏み込んだ。
短刀の間合いは極端に短い。たった一歩踏み込むだけで、そこはもう相手の懐だ。
利一は萩子の短刀を、それを持つ手ごとつかみ、捻りあげた。それとほぼ同時に萩子に足払いをくらわせる。短刀が落ちた瞬間に、バランスを崩した彼女の体を、廊下へと押し倒した。
「いい加減にっ・・・しろっ!!」
肩から床に倒れこんだ萩子が、痛みに呻いた。
利一は、息を切らせながら、萩子を押さえつけた。
「死にたいんなら・・・っ、一人で勝手に死ねばいいだろ・・・!」
激しい感情の合間に搾り出した声は震えていた。――何に腹を立てているのか、わからない。必死で押さえつけようとしても、溢れてくる。
「放してっ!」
「なんでおれが恨まれなきゃなんないんだ。勝手な事情に巻き込むな!」
「勝手?春家を名乗って、無関係だと?」
「おれがあんたに何をした!殺されなきゃいけないようなことはした覚えはない!」
「それが春日一族が背負ったものだと、まだわからないの?!」
怒鳴るように言われた言葉を理解しなかったわけではない。ただ、受け入れられなかった。
睨み付けてくる萩子を、恐ろしく冷えた思考の中、見下ろす。
落ちていた短刀を拾い、握り締める。あまりにも冷えた自分の手に、怒りが増すような気がした。
一瞬、萩子の目に怯えが混じる。――利一が、短刀を振り上げたから。
死んでもいいと言ったものが、なぜ怯える。
思考は冷え切ったままだった。
「―――っっ!」
短刀を萩子の首を掠めるように振り下ろす。
「・・・わかんねぇよ」
まだ声が震える。何かを恐れるように。
「わかるわけねぇだろ!!」
「若頭」
別に咎めるでもなく、現一が利一を呼んだ。
その瞬間、短刀を握る手の感触にぞっとして、萩子を突き放すようにその場を離れた。
萩子が体を起こし、肩を上下させながら、震える吐息を幾度も吐き出す。
一方の利一も、肩で息をしていた。左手の感触に、怯えながら。
現一は二人をただ見ていただけだった。
「若頭、おれもう至輝さまのとこに帰りますんで、失礼します」
利一の行動を咎めたり、萩子に声をかけたりしない。何事もなかったかのように、彼は平然としている。
「あの、現一さん・・・」
「なんすか」
「その・・・止めて、くれないんですね」
「春家の者の行動を止める権利はないもんで」
そうは言うが、むしろ興味がない様子だった。先ほどは利一を助けたのに、萩子が殺されそうな時には助けない。――意味がわからない。
利一は恐る恐る萩子に声をかけた。
「・・・・・・あの、萩子さん、」
萩子はまだ荒い息をしていた。――が、突然跳ね起きて、利一を廊下から庭に突き落とした。
びしゃり、と濡れた地面に背中から落ちる。
「うわ・・・」
「みんな・・・それぞれの家の業を背負ってる。あなただけが、逃れていいはずがない」
「みんな逃げればいい話だろっ!」
利一はぬかるんだ地面に手を尽いて、体を起こしながら言い返す。
「あなたのような人を愚直と言うの」
萩子は冷たく言い放った。
「なにをっ」
「あなたは逃げることしか考えてないのよ。わからないと言って本当は逃げてるだけ。――私とあなたは違うに決まってるじゃない。私は生まれたときからここにいる。選択肢なんてなかった。でもあなたは、自分で選んでここへ来た。それなのに春日から逃げるのね」
呪うような冷たい一瞥をくれて、萩子はもと来た廊下を走っていった。
泥の感触に顔をしかめながら立ち上がろうとしたところへ、現一が下に降りて手を差し出した。
「――大丈夫っすか」
「・・・現一さん、・・・なんで・・・・・・さっきおれのこと、止めてくれなかったんですか」
熱を持った、掠れた息が喉を振るわせる。
だがそんな利一に対して、現一はいつもと変わらぬ平然とした様子で聞き返す。
「止めて欲しかったんすか?」
「普通止めるでしょう?もしかしたら・・・殺してたかもしれない」
「若頭に人は殺せませんよ」
これもまた、彼は平然と言い放つのだった。優しさの欠片もなく、ただ淡々と事実だけを。
「・・・・・・そう、ですか」
利一はそう呟いて立ち上がり、現一に背を向けた。
「若頭。風邪ひきますよ」
「頭冷やしてきます」
「・・・・・・ま、いいっすけど。ほどほどにね」
現一が去って行く気配がする。
利一は空を見上げた。
顔に雨を浴びて、熱い息を吐く。
ゆっくりと目を閉じる。
冷たい雨に混じって、ほおに暖かいなにかが流れる。
濡れる感触は決して嫌いじゃない。むしろ好きだった。小学生だった頃。傘があるのに差さずに帰った。中学の頃、友人たちと増水した川でおぼれかけて、けれど懲りずに遊んだ。
雨に打たれる感触が好きだった。
濡れた髪から雫が流れる感触は、――好きじゃない。
詰まる胸から、息を吐き出す。夏だというのに、一瞬白く宙にとどまる。
びしゃびしゃと泥水を跳ね散らかしながら、傍らに少女がやってきた。
「濡れたらいい男になると言うわね」
少女――由布姫は相変わらずぼんやりとした表情で、遠くを見つめている。
「・・・姫、濡れてしまいます。風邪を召されては・・・」
「あなたは?」
「え?」
「あなたは一応、春日にとっては大切な人間なのでしょう。風邪など引いていいの?」
「・・・体だけは、丈夫です」
「弓弦があなたのことを言っていました。おそらく肺を、患うと」
決して平坦なその口調を崩すことはない。纏う雰囲気さえ変えない。それゆえに、何を言われているのか一瞬理解が遅れた。
おそらく、肺を、―――患う?
「・・・・・・、まさか」
「あなたの父親はどうして春日を去ったの?」
「それは体がもともと・・・」
「先ほど弓弦に聞きました。あなたの父親は十六のとき、肺を患ったと。それで春日を去ったのだと」
「・・・直接の原因はそうだと聞いています、・・・けれどわたしは、」
「何もないならいいのです。けれどそうなれば、あなたは春日から必要とされない。ちょうど今のわたくしのように、殺されるかもしれませんね」
すっと、由布姫がこちらに視線を向ける。――向けているはずなのに、その焦点がどこにあっているのかわからない。
雨足が強くなる。
由布姫は空を見上げた。雨が彼女の肌を伝い、浴衣を濡らす。
「姫、・・・死にたいのですか?」
ゆっくりと、問いかける。
「別に。殺してくれるならそれでも構わないというだけです」
再び由布姫の視線がこちらへと戻ってくるが、相変わらず焦点は定まらない。彼女の存在こそが、この世に定まっていないかのように。
「なぜ?」
「ではなぜあなたは生きようとするのですか。生きようとするくせに、武器を拒むのはなぜですか」
「生きるのは本能です。意味が欲しいなら後付けでいい」
「明快ね。迷わないでいられるとは、羨ましい限りです」
声音は相変わらず単調で、それゆえ利一を苛立たせた。
「姫。武器を持なくても、生きることは出来るんです」
口調が少し荒くなる。それでも由布姫の表情に変化はなかった。
「ええ、外からやって来たあなたの常識ではそうなのでしょう」
「ここも、そうであっていいはずです!」
「例えそうだとしても、わたくしにはあてはまらないわね」
「なぜ!」
「生き死には、生きた者が語ることです」
「は・・・・・・」
「わたくしは死んだ人間ですから」
時間にすれば十秒ほどか。
利一は呼吸を忘れていた。
苦しさを訴えた肺が空気を求めて肩を上下させる。雨に冷やされた空気が一気に流れ込み、肺が縮まるような息苦しさに襲われる。
「姫、利一さま」
雨の向こう、――廊下から、徳美が降りてきて二人を呼んだ。
「お体が冷えてしまいましょう。早くこちらへ」
「徳美さん・・・っ、」
訴えようとした利一から、徳美はあきらかに故意に視線を外した。
「桂也乃どの、姫がおられました。こちらです。――さあ、姫」
桂也乃がやって来て由布姫の手を引いて行く。由布姫は桂也乃の手を払うことも、利一を振り返ることもしない。すべてをあるがままに受け止めていく。
「ひめ――っ、」
「利一さま」
徳美が強い口調で利一の名を呼んだ。
「徳美さん、なんで・・・」
「フジと喧嘩なさったそうですね。雨に打たれるとは、自棄ですか?」
「滝修行の代わりです。心が落ち着きますよ」
「そのわりに、随分乱れていらっしゃる」
「・・・・・・」
徳美に促されるままに、屋根の下へと移動する。びしょ濡れのまま廊下へ上がる。
「徳美さん、由布姫は、・・・死んだ人間だってどういうことですか?」
「濡れたままでは風邪を引きますよ」
「教えてください、なんで由布姫は狙われてるんですか!」
「由布姫は、――十一年前にお亡くなりになりました」
間髪入れず、徳美は無表情で答えた。
「彼女は姫の影武者です。だから宮野は疎んでいますが、春日がわたくしを姫の傍につけて庇う姿勢をとるために殺されていない。それだけの話です」
「宮野の人間じゃ・・・ない?」
「そうです。春日から選ばれて、姫の影武者となりました」
徳美は誰かに聞かれることを恐れるかのように――利一の耳元で小さく囁いた。
「名を、紘生佐登美と言います」