O4 「空蝉」(後)
庭に、下駄の音が響く。――宮野家の由布姫が、ぼんやりとした表情で歩いていた。
「どうして春日のご老体はあなたを寄越したのかしらねぇ」
からん、ころん、――わざと下駄を引きずって、音を立てる。
十六歳の少女というと、もっと華やかな――ちょうど、三家の透のような――イメージがあるのだが、彼女はどうも違う。
利一は彼女に合わせてゆるゆるとついていく。隣には徳美がいるのだがあたりの気配に注意を払っていて、表情は険しく、会話にも参加しない。
「さあ・・・わたしが勝手に思いますに、姫にとってはあまり意味がないんじゃないかと」
慣れない言葉遣い。――春日の家に出入りするようになって教え込まれたが、まだたどたどしい。
「あら、どうして?」
「ご存知かと思いますが、わたしは春日の一族と何の関係もなく育ったのもで、こちらのやり方に慣れないんです。じじさまは、習うより慣れろとでも言いたいのではないかと」
「あら、春日とは無関係に?」
「ご存知ありませんでしたか?」
「さあ・・・聞いた気もするけれど。春家の者とは普通関わりませんから」
春日の一族の頭領である春家は普通、春日の代表として宮野の主と接するだけだと聞いている。――普通なら。
「ねぇ、――蝉が欲しいわ。あそこで鳴いているのを、とってきてください」
「蝉が?」
田舎育ちの利一は、幼い頃、近所の同じ年頃の少年少女と虫を取って遊んだ思い出があるので、普通の少女が蝉を欲しいと言ったところで違和感を覚えないのだが、これが屋敷の奥深くで育てられた姫が欲しがると奇妙な感じがする。
「わたくしがとってまいりましょう。――桂也乃どの、網がありましたか?」
傍らから徳美が言った。
「ええ。奥に確か」
部屋の中に居た桂也乃が答えた。
利一は奥の桂也乃と由布姫を交互に見やって、首をかしげた。
「・・・蝉なんて、どうなさるんですか?」
「鳴き止めばいいと思って」
その答えに、利一は一瞬眉をひそめた。
「お嫌いですか?」
「鳴きたいだけ鳴けるものが、わたくしは嫌いです」
「・・・・・・」
ちょうど、桂也乃が虫取り網をもって戻ってきたところだった。
「真綾さまにお借りしましたよ。真綾さまは虫がお好きですからねぇ」
にこにこと笑いながら庭へ降りてくる桂也乃を、利一は複雑な思いで見つめていた。隣を見れば、徳美も同じような心境なのだろうと察することが出来た。
「桂也乃。網は真綾さまにお返ししてきて」
そう言ったのは女の姿をしたフジだった。いつの間にか、廊下からこちらを見つめている。
「フジ、」
「姫さま。鳴くしかない憐れもあるのですよ」
「鳴けぬは憐れでないと?」
「いいえ。ただ、姫さまなら、それがお分かりになると思い、申し上げているのです」
「十家はわたくしに意見するほど偉いの?」
「いいえ、これは意見ではございません」
「・・・・・・・・・」
フジは真っ直ぐ由布姫を見つめる。由布姫もぼんやりとした瞳でそれを受け止めていたが、やがて視線を逸らした。
「わかりました。――桂也乃。喉が渇きました。お茶を」
「あ・・・・・・はい、ただいま」
桂也乃は我にかえり、あわてて奥へと引っ込む。フジと由布姫のやりとりに面食らった様子だった。
「・・・さあ、姫。座敷に上がりましょう。今日も暑くなるようですから、外に出ていらっしゃってはお体に障ります」
徳美が由布姫をうながして、座敷へと上がる。
利一は徳美と由布姫が奥へ消えるのを待って、フジに話しかけた。
「遅かったな」
利一も縁側へ行き、草履を脱いだ。
女にしては線が太い、声が低い――そんな違和感かき消してしまう、完璧な女を作り上げたフジが、女らしいしぐさで髪を後ろへはらう。
「だから女の支度には時間がかかるって言ったじゃない」
「ははっ、最近こっちの姿に慣れてきて、男のお前だと違和感あるよ」
「あらいやだ。どっちもあたしなのに」
「・・・――どっちにしても、よく由布姫を止められるな」
こういう時だ、フジはすごい人間だと実感するのは。何か、――特別な何かを、彼は持っている。
「おまえ、・・・やっぱすごいよ」
「そんなことないわよ」
とんとん、と肩を軽く叩かれる。
「行くわよ。これでも一応姫をお守りするために来てんだから」
「ああ、」
廊下から部屋のほうへ入る。
由布姫は脇息にもたれかかり、徳美が団扇で送る風を受けていた。
フジと利一の姿を認めると、傍に寄るよう言う。二人は姫の正面に正座した。
「思い出しました。――春日の跡継ぎは、出奔したとか」
姫がこちらではない、どこか遠くを見ながら、先ほどの話の続きを唐突にはじめた。
「・・・ええ、わたしの父は、確かに自ら春日と縁を切ったと、聞いております」
「なぜ?」
「父は、詳しくは語りません。春日の一族のことを知ったのも、父の口からではなく、祖父の口からでした。ただ――、父は昔からあまり体が丈夫ではなかったようです」
「体?あなたは平気?」
「ええ」
「だから、ここに来たの?」
「そうです」
「愚かね」
声音はまったく変えず、由布姫はそう言い放った。
「この箱庭に、なぜ自ら飛び込むのかしら。夏の虫もそれほど愚かではないでしょうに」
「愚か、ですか」
由布姫は言うだけ言うと口をきかなくなった。端から視線はどこか遠くにあるから、彼女の意識がどこにあるのかよくわからないが、少なくとも利一からは外れたようだ。
畳と布が擦れ合う音が聞こえてきたと思ったら、下座から声がかけられた。
「姫さま、お茶をお持ちしました」
下座でこうべを垂れるのは、百家の萩子である。手に巻いた包帯は、どうやら利一かかけたお茶のせいらしい。
お盆にはコースターに載った、麦茶の注がれたグラスが四つあった。普通主従は同じ時、場所で飲食をしないと教えられていたが、そう畏まった時ではないという事だろう。
「あら・・・・・・、珍しい顔を見たわ」
由布姫の視線は、萩子の姿に向けられていた。焦点が定まっているようには見えなかったが。
「手の空いていたのがわたくしだけでしたので。――他の方々も、どうぞ」
「桂也乃が行ったはずだけれど?」
「ええ。茶菓子の準備をしております」
ふうん、と由布姫は関心なさそうに頷いた。
その横で、徳美が厳しい表情をしていた。そして。
「――萩子。毒見をなさい」
徳美の言葉を受けて、萩子の表情が凍りついた。
「徳美、いいわ」
「そういうわけには参りません。――萩子」
徳美は冷徹に言い放った。
萩子の手が、細かく震える。何かに耐えるように、一度目をきつく閉じると、一つのグラスを手にとって、それを半分ほど一気に飲んだ。そしてそのまま、お茶が入ったままのグラスを徳美に向かって投げつけた。
「―――っ!」
その一連の行動があまりにすばやく唐突だったこと、グラスを投げつけたのが至近距離だったことがあって、徳美は避けきれず、グラスは徳美の額をかすって畳に転がった。
「徳美!」
「徳美さん!」
「こうやって!薫子を殺したくせに、まだ殺すか!」
驚きと心配の声を上げるフジと利一を遮るように、萩子が声を張り上げた。
「そんなに姫が大切ならあんたが毒見すればいい!死ぬならあんたが死ねばよかったんだ!どうせ落ちぶれた紘家だ、あんたも死んだって、春日から顧みてもらえるほどの価値はないくせに!」
「萩子、姫の御前です」
グラスをぶつけられ、罵倒されているにもかかわらず、徳美は態度も声音も平静を保っていた。
それが萩子の神経を逆撫でした。萩子は徳美につかみかかった。だがそれを、フジが後ろから止めた。
「放して!」
「やめなさい。百家の立場が悪くなるだけでしょう」
「だまれ!実戦に出ない十家が偉そうに!」
「実戦なら出るわよ。宮野が経営する企業があれだけいい業績上げられるのは十家や春家の諜報活動の賜物よ。外での仕事のほうが屋敷の中で血を血で洗うバカな争いするよりずっと胸糞悪いわよ。それに、」
フジは力任せに萩子を投げ飛ばした。女装しても腕力は男のものである。
「情報盗むだけならあんたたちにも仕事が回るに決まってんでしょうが。偉そうなのが上位の家なんじゃないわ、泥被るのが上位なのよ」
萩子の口から、嗚咽が漏れた。
必死で歯を食いしばる萩子だが、それに対して慰めの言葉をかける気にはならなかった。
徳美は萩子には目もくれず、由布姫のぬれてしまった着物の裾を拭き、着替えを促している。だが彼女の表情は、萩子を見るに耐えず、見ないように心がけているように感じられた。
あわただしく足音が近づいてきて、桂也乃が姿を現した。
「何事ですか!」
「桂也乃、弓弦を呼んできて」
「フジさま、一体何が・・・」
「いいから。――徳美、姫のお召し替えは任せるわ。あんたも着替えなさいよ」
「わかっています。――さ、姫」
フジに言われて、三人が去る。
利一は恐る恐る、まだ体を震わせる萩子に近づいた。萩子は人の気配にはっと起き上がり、それが利一だと知ると、手を振り上げた。
萩子の平手は、利一の左の頬を打った。
「いって・・・」
「避けませんの?春家の若はどうやら鈍いようですね」
「別に、避けるほどのことじゃないですから」
「はぁ?」
バカにしたように、語尾を上げて聞き返す萩子に、利一は静かに、冷徹に返した。
「たいして重いものじゃない。あなたの手には、別に復讐とか恨みとかがのってない。あるとしたら逆恨み。――避ける価値もない」
「・・・・・・なんですって?」
つかみ掛かってきた彼女を、利一はまた突き放したりしなかった。
「薫子を殺したのは春家でもあるくせに・・・!一族内で争うことが、どれだけ血なまぐさくて価値のないことは春家も知っているくせに、春家は頭領のくせに、何一つしない!だから・・・っ、だから・・・・・・っ!」
叫ぶ萩子の息はだんだんと激しくなっていた。多少の運動でここまで息を切らすことはまずない。それなのに、萩子はもう肩で息をしている。
「利一くん、離れてくださーい」
後ろから弓弦の声がかかった。
「ゆづる・・・・・・っ!」
憎々しげな呟きを残して、萩子の体から力が抜け、萩子はたたみに倒れこんだ。
「あ、気ぃ失いました?そりゃいい、手間が省けた」
「弓弦さん・・・」
「こんなことになるから萩子は実家に返せって言ってるのに、寿子どのが『うん』と言わないんですよね」
やれやれ、とため息をつきながら弓弦は萩子の傍らにしゃがみこむ。萩子を仰向けにして寝かせ、呼吸や脈拍を確かめる。
「ニイやん、お薬どうしますー?」
弓弦の後からやってきた胡月が、大きなカバンを開けながら問いかける。
「あー、今はいらない」
「そぉです?ニイやん、この前入った薬試したいって言っとったじゃないですかー」
「胡月。それは事実だけどもね、他の人に知られないようにしないとだめなんだよ」
「どうせ春日のうちですのん、気にしたところでどーにもならないって言ったのはニイやんですよ」
「若頭はそーゆのに慣れてないから、あっさり言っちゃダメなの」
「あ、そーでした。もーしわけない、若頭。胡月、こっちに慣れてないもんなから」
胡月と弓弦は相も変わらず、周囲を置いて会話する。内容に対して、二人の口調は緊張感に著しく欠ける。
「・・・あんた、医者なら精神科の知り合いも居るでしょ。一度診せて来なさいよ」
腕を組んだフジが、気を失った萩子を見下ろしている。先ほどの弓弦たちの会話については聞かなかったふりを決め込んだらしい。
「診せるほどじゃないよ。環境を変えて休めばすぐによくなる。ぼくは何度も寿子どのにそう言ってるってーのに」
二人の会話内容に、利一は眉根を寄せた。
「――萩子は病気なんですか?」
「病気っていうか、心身症です。つまりはストレスですよ。姉妹が一人死んでから、この子は随分おかしくなった。もともと宮野に仕えるのを快く思っていなかったようだから、なお更ですよ」
「薫子、ですか」
「萩子が言いましたか?別に、利一くんは気にしなくていいですよ。真綾さまの毒見で死んだんですけどね。ま、表向きは病死ですから」
「・・・・・・、そう、ですか」
ここは、人の生き死にに冷たい所だと思う。
人の生死が当たり前で、当たり前であるがゆえにその話題を忌避しない。実に淡白にそれらを口に出す。――それらを異常に感じるのは利一がまだこちら側に馴染んでいないせいなのだろう。
「フジくん、萩子運んどいて」
「はあぁ?女のあたしに向かって何言ってんのよあんたやりなさいよ」
「やだよ、ぼく医学書より重いものは持たないことにしてんの」
「女の時には基本的に男よりか弱く振舞うって決めてんのよ」
二人のやりとりが、遠くに聞こえる。
由布姫とのやりとりを思い出す。彼女は利一のことを愚かだと一蹴した。
きっと、自分は愚かなのだろう。
それにも気づけず、ここまで来た。