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やさしいこえ


「由布」

 ほんの少しだけためらいの混ざる呼びかけに、私は本から顔を上げる。
 視線の先には庭で遊ぶ二人の少年の姿。――この名の持ち主の兄と、その影役だ。
 名の持ち主の兄は、庭の大きな広葉樹の上から、笑ってこちらに声をかける。
「桜がすごいぞ、塀の外に見えるんだ」
 私は返事をためらう。この名の持ち主のふりをすることを、いつだってためらっている。
 そうしているうちに、乳母が咎めた。
「若様、危のうございますよ。慶藤さまも、若様が無茶なことをなさるまえに、お止めになってください」
「落ちたところでせいぜい骨折くらいだ。心配するほどのことじゃないさ」
 影役はかろやかに乳母の言葉をかわし、微笑んで私に手を差し伸べた。
「来いよ、由布。抱いて上まで上げてやるから。上からは至輝が引っ張ってくれるし」
 その腕は決して頼りがいのあるものではなかったが、私は縁側に本を置いて、影役のもとに近づいた。
 樹の上から、名の持ち主の兄の笑う声が降ってくる。
「珍しいな、由布が来るなんて。――ほら、手、出して」
 名の持ち主の兄に向かって、手を差し出す。到底届かないところを、影役が抱きあげてくれる。
 ふわり、と体が浮いて、大して力を使うことなく樹の上に登ることができた。
 間をおかず、影役が誰の手を借りることもなくするすると登ってきた。
 大樹は、子供三人を抱えてもなお余裕がある。名の持ち主の兄は出っ張りに手足をかけて、さらに上に登っていった。
 影役は私を幹の傍に座らせて、塀の外を示す。
「ほら、ちょうど満開。風向きがよければ桜吹雪が庭に舞い込むんだ」
「昼ごはんはここでするか。簡単に食べられるものを作ってもらえばいい」
「いいな、それは。――由布、本を読むならここでもいいぞ。とって来ようか?」
 影役はその名を呼ぶときに、ためらいの片鱗すら見せない。
 私がうなずくと、影役は身軽に樹を降りて、すぐに本をとって戻ってくる。
「由布、気をつけろよ。そこはすべるから」
 名の持ち主の兄は、やはり違和感を口の中で転がしたような感じでその名を呼ぶ。
 私は黙ってうなずいた。
 ふわり、と風が吹いた。
 その美しさなど、わかりはしない年齢だった。だが、ただ意味もなく泣きたくなった。

 その後、何度もあの風景を思い出す。
 風が正面から吹きつけ、桜の花びらが舞う、あの。
 それと同時に何度も彼らの声を耳の奥で反芻する。――どちらも、名を呼ぶ響きは優しかった。

 私を守るがために、ためらいを見せない影役と。
 私を哀れみ慈しむ、名の持ち主の兄と。






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