最初の話から十年と半年くらい後の話。

*本編番外編合わせて未登場のキャラが、まるでレギュラーかのように居座っています。


 デスクワークには向いていない。
 間もなく終業時刻を指そうとする時計が目に入り、利一はため息をつきつつ思った。
 場所は宮野が経営する会社の、五年ほど前にできたばかりの子会社のオフィスである。もともと親会社にいた数名が立ち上げに関わり、さらに若手ばかりが集められた。その若手が集められていた時期に入社した利一は、ちょうどいいから、とこちらに放り込まれた。「聞きようによっては左遷だな」、というのは、従妹の言である。
 さて、そもそも若手ばかりが集められて、わざわざ会社を分けたのには理由がある。時代に沿った、若い感性を取り入れなければ会社としては取り残される。ところが年季の入った重役たちは、若者の意見を素直に聞き入れられない。だから重役たちの手から離れた場所で、勝手にやって勝手に育って、そのうち立派になって戻ってこい、ということらしい。
 そんな理由から、ここにいる面々の平均年齢は約三十歳。どんな肩書を持った社員も、年が近いせいで上司というより先輩といった感が強い。
 堅苦しいことが苦手な利一としてはやりやすい環境である。
 入社当初はともかく、最近は手慣れたので残業も少ない。
「残業すんならそれがいかに合理的であるかプレゼンして聞いた全員を納得させてからだ。根性論はいらねぇ、数字で説明しろ」
 というのは、立ち上げメンバーでもあるフジの言だ。
 ――そう、フジも同じ会社に勤めている。思えば長い付き合いになっている。
 そのフジが、利一の肩をたたいた。
「なにやってんだ?もう片づけ始めろよ」
「あー、うん。十分くらいオーバーするかなぁって」
 利一が残っている仕事を示すと、フジは露骨にあきれ顔になる。
「だから、オンオフをきっちりしろっつってんだよ」
「いや、今日は急な仕事が入って」
「フレキシブルな予定を立てろと何度言わせる」
「ふれきしぶる・・・うん」
 ちなみにフジがああまで強く主張して残業を嫌うのは、彼がこの会社の外でも仕事を抱えているからだ。もちろんのこと、それは春日一族に関連することである。
「まあ、十分までなら許す。手伝おうか?」
「あー、じゃあ、このへん頼んでいい?仕分けだけ」
「おう」
 フジは身軽に利一の隣の席に着く。
 この会社では個別にデスクというものを置いていない。個人用のパソコンと書類ケースがあって、それを好きな席に持っていって仕事をする。気分によって好きな場所で出来る。といっても、みんなだいたい指定席があるのだが。
 フジの手伝いのおかげで、「帰宅開始推奨時刻」から五分オーバーで済んだ。
 この頃には、社員たちの大半が退社している。
「そういやトシ、この後予定は?」
「ないけど」
「うち来ないか。今日はすき焼きだから客を連れてきていいってよ」
「へー、じゃあ行こうかな」
「至輝にも声かけてんだ。あとは徳美が来るかな」
「ふうん。迎えに行った方がいいのかな」
「いや、勝手に来るだろ。――さて、片付いたか?」
「うん」
 間もなくオフィスからは明かりが消えた。


 フジは未だに実家暮らしだ。といっても親と完全同居というわけではなく、離れに住んでいる。
「ただいまー」
「おじゃましまーす」
 玄関で声をかけると、きゃっきゃと声がして小さなこどもが駆けて来た。
「とーさんかえったー!」
 こどもは勢いよくフジに飛びつき、フジは「うおっ」と呻きながらもそれを受け止めた。
「はいはい、ただいま。で、お客さんにご挨拶は?」
「・・・こんばんはっ」
 楽し気に、少し恥ずかし気に、こどもは言う。
「こんばんは。今日も元気だな」
「うん!」
 このこどもはフジの長男で、今年で三歳。名前を柊也という。
「しもふりだよ!」
「・・・・・・うん?ああ、肉?霜降り肉?」
「しもふり!」
「へぇ、楽しみだな」
「うん」
 喋っていると、フジが笑いながらこどもを下ろした。
「わかったから、先に上がらせてくれ。ほら、お客さんにスリッパ出してあげて」
「はーい」
 小さな手が揃えてくれたスリッパをはき、家に上がる。通された居間のテーブルにはすき焼き鍋がセットされていた。
「利一君、いらっしゃーい」
 ほがらかに迎えてくれたのはフジの妻だ。
 春日一族では非常に珍しい存在で、彼女は一族の外からやって来た。非常識一族に、いちいちツッコミを入れたくなる気持ちを共有できる、利一にとって貴重な相手である。
 料理上手で、時折こうして独り身の利一を招いてくれる。
 もっとも、利一の住まいは祖父母がいる春日の屋敷で、家に帰れば祖母が料理を用意してくれる。一人暮らしの若い独身男性が陥りがちな、貧しい食生活はしていない。
 彼女がそれを知らないはずはなく、実際は、フジが暗に結婚を促しているのだろうと察している。
「あれ、至輝は?」
「もうすぐ来るんじゃないかな?徳美さんは来ないって」
「ふうん、至輝だけ寄越すなんて珍しい」
「だよね。先に着替えてきなよ。――利一君、コートと上着、かけとくよ。貸して」
「ありがとうございます」
 彼女を見ていると、なるほど結婚もいいかもしれないと思ったりもする。
 柊也が足元にじゃれついてきたので、抱き上げる。
 食卓から少し離れた場所で、周囲にものがないことを確認してから高い高いをすれば、盛大に声を上げて喜ばれた。
 春日一族にいると、一族のこどもの相手をする機会が多くなる。そのため、弟妹を持たない利一も子守に慣れた。
 フジがくつろいだ格好になって戻って来た。その足元には女の子がいる。フジの長女で、八歳になるあやめだ。
「こんばんは」
 柊也を下ろし、しゃがんで挨拶すると、あやめはぺこりと会釈した。無言だ。
「あやめ、ちゃんと挨拶しなさい」
「・・・こんばんは」
 少し迷った様子を見せた後、表情乏しく言う。
 恥ずかしがり屋というわけではなく、引っ込み思案というわけでもない。七歳ながら主張があるときはちゃんと理論だった説明ができる、フジからの遺伝を強く思わせるこどもだ。しかしその年にしては、非常に静かだった。
 利一にとっては、少々扱いにくい。普通のおんなのこならままごとに付き合うし、男の子ならヒーローごっこに付き合えばいい。ところが彼女は、じっと考え込んでいることが多い。時に何もない空間を目で追っていたりして、理解しがたい。――というか、彼女が見ているものの正体をあまり知りたくない。
 正直に言えば、少々不気味である。
 フジにとっては第一子であるためか、彼はあやめを溺愛している。利一が彼女の不気味な面を控えめに指摘したときも、「そうそう、よく変なところ見てるんだよな」と気にした様子がなかった。
 柊也の相手をしてしばらく過ごしていると、至輝がやって来た。適当な安物を買っている利一と違い、一目でわかる高級スーツに身を包んでいる。コートを脱ぎ、片手でネクタイを緩めながら「やれやれ」と一日の疲れを吐き出している。
 至輝はこれでも大企業経営者一族の御曹司なので、この年で役員に名を連ねている。ついでに言えば、利一が務める子会社の方の代表取締役の欄には至輝の名前が書かれている。
 お偉方の愚痴をかるく漏らしながら利一に共感を得ようとしていた至輝だが、柊也に飛びかかられて中断した。
「至輝様、お疲れ様です」
「ああ、おつかれ。――おい、柊也、ひっぱるな」
「いらっしゃい。コートかけるから貸して。で、座って。もうすぐごはん出来るよ」
「ああ。――だから柊也!いい加減にしろ!」
「中途半端な怒り方するから面白がってんだよ。――柊也、こっちおいで」
 至輝が来たとたん、騒がしさが増した。
 わいわい言いながら食卓につけば、すぐに食事が始まる。
 ビールで喉を潤して、霜降り肉を堪能する。
 見るたびに意外に思うのだが、フジは子煩悩で、育児にも積極的だ。今も柊也の器にあらたな肉をよそってやっている。
 彼の妻はと言えば、食卓全体のことを把握しつつ、鍋の世話をし、その合間にあやめの様子を見て声をかけている。あやめがまたなんでもない空間を見ているが、利一は気にしないことにした。
「あやめ、なにが気になるの」
「ちょっと、通りすがりが、」
「あら、悪いものじゃないなら無視しときなさいな。ご飯に集中しないと、こぼしちゃうでしょ」
「うん」
 何が通り過ぎたんだろうとも思うが口を挟むような愚かな真似はしない。
 あやめのこれは、彼女が喋り出す以前から兆候があった。当時から、フジら夫婦はまったく気にしていない。
 このあたりを考えるに、フジの妻はこの家庭に相応しく器の大きな人間なのだろう。
 高級肉はあっという間になくなり、お腹いっぱいになったこどもたちはごちそうさまと言って席を立った。こどもの世話をするためにフジの妻が抜けるが、男三人は酒を片手に居座り続ける。酒はビールから熱燗に変わっている。
「ちょっと見ない間に柊也が大きくなってた」
「成長早いからなー。あやめのときなんて俺、忙しすぎて寝返りできるようになったなーって思ってたら次には歩いてた」
「どんだけ忙しかったんだよ」
「俺も思った。ま、当時は大学もあったし、一族がごたごたしてたしな。柊也はちゃんと見たぞ。この前は、あやめの参観日も行ってきたよ」
「え、ほんとに?」
「ほんとほんと。ちょっと地味な顔にメイクして目立たんように」
「いっそ女になればよかったのに」
「さすがにこの年になると難しいんだよ。最後にしたのは、二十五のときかな。あれも結構きつかった。うちの父上は十七までしかできなかったって言ってたから、俺は持った方」
「参観日って何するんだ?」
「こどもの様子見るだけだよ。うちで見るのとは違っててな、新鮮でいいもんだ」
「へぇ」
 惚気るフジに、至輝は僻みっぽい視線を向ける。
「随分と幸せそうじゃないか」
 利一は首を傾げた。
「・・・・・・?至輝様、うまくいってないんですか?」
 一応至輝には婚約者がいる。本来ならば政略的にどこかの令嬢を迎え入れる立場なのだが、何をどうしてか、彼は五歳年下の春日の末端の間者を選んだのだ。未だに春日、宮野の双方から不満が出ているものの、フジがうまくいなしている。
 利一も、最近はある程度発言力がついてきたので至輝の味方だ。世代交代が進むたびに至輝の味方は増えている。
「いや・・・うまくいってる、とは思うけど、最近忙しいらしくって、時間が、合わない」
「仕事出来る女を選んだんだから仕方ないだろ」
 フジが冷たく言う。
「というか、そもそもの元凶はおまえだろうっ!」
「本人が好きでやってんだ、俺はむしろ控えめにしか指示出してないし」
「・・・・・・」
 件の至輝の婚約者、一族においてはフジの部下である。なんでもフジ自身が十代の頃に目を付けて味方に引き入れたそうで、十年以上の時を経てスーパー仕事が出来る女に成長した。
 利一も何度も顔を合わせているが、天真爛漫な見た目で、仕事をさせると恐ろしく手際がいい。フジの端的な命令も、行間を読んで先回りして仕事をするほどだ。
「そんなに言うくらいなら、大学なんて行かさずにさっさと話し進めればよかったんだよ。お偉方が気になってたのは仕方がないけど、それにしても成人か、大学卒業のタイミングで籍だけでもいれときゃ話は早かった。今からでも遅くない、さっさとプロポーズしてしまえ」
「仕事が楽しいからって断られそうで嫌だ」
「そのあたりは知らん。まあ、結婚する気はあると思うぞ。ないなら早くにきっぱり断るやつだし、言うだけ言ってみろよ」
「・・・・・・」
「お前、もう三十だぞ?めんどくせぇ家に生まれたところは同情するが、そこでやってくって決めたのはおまえだろう。決めた以上、結婚してこども作るのもめんどくせぇ義務の一つだ。しっかりしやがれ」
 思えばこの、主従逆転しているかのような関係を見ているのも、十年ほど経つ。利一は感慨深く思いながら酒を飲む。
「そーいえば、至輝様ってうちの祖母みたいな女性が好みって昔言ってましたよね」
「あ?ああ・・・」
 至輝の理想をざっくりまとめると、淑やかで、しかし度胸があって仕事ができる女性である。
「だいたい当てはまってますよね。うまく捕まえましたね」
「なんだ、理想通りと思ってもふたを開けてみれば現実だとでも説教したいのか」
「いえ、そんなつもりでは・・・」
「そもそも捕まえきれてねーけどな」
 フジが意地悪く笑い、至輝はむっとしながら利一へ話の矛先を向けた。
「利一だって他人事じゃないだろう。いい加減に相手を決めないととんでもない嫁押し付けられるぞ」
「至輝、それはいらん心配だ。とんでもない嫁は俺が排除するから」
「聞いたか利一、こいつがいる限り、おまえまともな結婚はできないぞ」
「いやあ・・・もう夏江でいいかなーって思ってます」
 夏江は利一の従妹だ。少々激しい気性だが、最近は落ち着きつつある。夏江は野心家なので「頭領かその奥方になりたい」「自分に頭領を譲らないなら奥方にするか、それに準ずる権力くれ」と利一に堂々と言っている。もちろん、二人が気安い友人関係にあるから言えることだ。
「そんな消極的な」
「いや、大学生のうちに何人かつきあってもみましたよ。結婚とか深い話にはいかないだろうなって最初からブレーキかけてる部分はありましたけど、でも、一緒に生活していく覚悟が出来るような相手はいなかったです」
「会社には?」
「人間性は好ましいなって思う人はいるんですけどね。ああ、見た目がどうこうって意味でもなくて。なんていうかな・・・家族になったイメージができないんですよ。面倒な一族のことをうまく処理できて、さらに同じ家に暮らしてて息が詰まらないかどうか、って。その点、夏江なら平気なんですよね」
 平気もなにも、現在利一も夏江も、春日の屋敷で寝起きしている。高校三年の秋からのことなので、かれこれ十年ほど経つ。
「まあ、夏江が嫌だといったらそれまでですけど」
 ふうん、とフジと至輝は納得しきっていなさそうな顔でうなずいた。
 そこへ、フジの妻が戻って来た。
「おつまみ追加しようか?」
「なんかあんの?」
「お義母さんが持ってきてくれたいろいろとか」
「ああ、じゃあそれで。こっちきて一緒に飲めよ」
「んー・・・お酒はいらない」
 そんな会話をするうちに、食卓はざっと片付けられ、熱燗とつまみ数品が並ぶだけになっている。
「あやめも寝たのか」
「寝たよ。意外に素直に寝たねぇ」
「そりゃよかった。――ところでお前飲まないって、体調悪いのか」
「悪くはないよ。というか、そんな聞き方されると、まるで私がアル中みたいじゃん、やめてよ」
「アル中は薬になると言い張って酒を飲む」
「うーん、そうか・・・いや、そういう問題でもないんだけど。まあ、心配させるくらいならもう言っちゃおうかな」
「何を」
「ええと、三人目ができたかもしれません」
 はにかみながら。
 とても幸せそうに彼女は言った。
「・・・・・・」
 フジが目を見開いた。
 利一はその幸せにつられるように笑った。
「おめでとうございます」
 至輝もほほ笑む。
「よかったな。もともと三人は欲しいと言っていたことだし」
「ありがと。――ああ、でもまだわかんないんだ。検査したわけじゃないし、生理が遅れてるだけかもしれないし。・・・前みたいに、流産ってこともあるしね」
「それは言っても詮無いことだ。病院に予約は?」
「まだ。もう少し様子見てからでいいかなって思ってる。確定するまで、ほかでは言わないで。――で、そこの旦那さま。なんか妻に対して言うことはない?」
 そう言う彼女は少し誇らしげにも見えた。
「ああ・・・うん、病院は俺が予約しとく、一緒に行くから」
 フジはと言えば、嬉しそうだが少々呆けている。至輝があきれ顔になる。
「お前、馬鹿か。もっと他に言うことあるだろう」
「いや、ありすぎてまとまんなくて。――重いもの持つなよとか」
「三人目だぞ。わかりきったことを・・・」
「とりあえず至輝、お前には言うことがある」
「は?」
 フジが隣に座っていた至輝の両肩をがしりと掴んだ。
「お前、今すぐ菜々美に電話しろ」
「は?」
 菜々美とは、至輝の婚約者である。フジの部下で、スーパー仕事が出来る女だ。
「プロポーズしてすぐ孕まして来い。したら、うちの子が影役になれる可能性がある」
「・・・・・・おまえ、最低だな」
 至輝が半眼になった。
 利一も言葉こそなかったが、全く同じ気持ちである。
 影役は、主家宮野に生まれた子と同じ年に生まれた春日のこどもに任ぜられる役目だ。この影役に自分の子を差し出すことは、春日で権力を得る道の一つ。フジが所属する十家はそうして栄えていたし、フジ自身も至輝の影役をし、若いうちから権力を得ていた。
 できたかどうか微妙なうちから、こどもを出世の道具にすると言い放ったにも等しいフジであるが、その妻はおおらかに笑っている。
「確定じゃないのに、気が早いねぇ・・・」
「えっと、あの発言は怒るとこでは?」
「利一君。春日の人間なら、私を気遣うんじゃなくて、焦るところだよ。家の幸せのためには安定が必要で、安定のためには権力が必要で、そのための手段として子を影役にしたり、兄弟姉妹を結婚させたり、自身が益のある相手と結婚したりするわけだよ。十家がこれ以上権力を持つと、頭領家である春家をしのいでしまう。そのために君は、フジをある程度邪魔するべきだよ」
「・・・まあ、それが正論なんでしょうけど・・・」
 説教されるとは思わなかった。
 おっとりした風に見えても、やはりこの人はフジの妻だった。
 一方でフジと至輝は未だにやいやいやっている。フジが菜々美に電話をかけようとして、それを至輝が必死に防いでいるのだ。
「プロポーズもできねぇとは言わせねぇ」
「自分のタイミングでさせろ!」
「最悪先に孕ましてしまえ。菜々美も仕事を控えるさ」
「ほんっと最低だなお前!」
「婚約者だぞ。後ろめたいことなんてねぇだろうが」
「お前、自分がやらかした末にうまくいったからってな!相手がなんであれ同意がなけりゃ犯罪だぞ!」
「それが怖くて春日を名乗れるか」
「真正のクズだな!」
 二人の口喧嘩はまだ続きそうだったが、利一はぎょっとして、にこにこ笑っているフジの妻を見た。
「あの・・・今、至輝様が言ったことって・・・」
 フジは学生のうちに、すでに社会人だった彼女と結婚した。
 式は挙げず、籍を入れたという報告を受けたのちに、内輪の小さな集まりだけ。
 その後まもなく、彼女はあやめを妊娠した。
 いわゆるできちゃった婚、ではないと利一は思っていたのだが。
「あ、うん、ほんとほんと。限りなくわざとに近い事故だったけどね」
「わざと・・・ってほんとに犯罪じゃ・・・」
「一応事故だよ?一応。でもがっつり危険日だったからどうしようかってなってねぇ・・・その時点では可能性でしかなかったんだけど、色々あったし結婚しようかってなって、ドタバタで入籍。その後に妊娠判明して、ぎりぎりデキ婚回避。私はどっちでもよかったけど、春日のことを考えたらこれでよかったんだろうね」
「・・・よ、よく笑ってられますね」
「だって、もう昔の事だし。いい父親になってくれたわけだし」
「確かに意外と子煩悩でしたけど・・・・・・こどもが出来ると人は変わる・・・?こどもというより思い切って環境を変えた結果人間性もかわったのか・・・?」
 利一が唸ると、彼女は肩を震わせ笑い始めた。
「あははは、・・・利一君。この馬鹿な男は、私に向ってプロポーズはしたけどね、」
「けど・・・?」
「断るなら監禁してやるって言い放ったんだよ。そこまで腐りきった人間性が変わるわけないじゃないの。腐ってる部分はあるけど、こどもにはそれを見せずに父親としての義務は果たしているからいいってだけ。私だって完璧な妻じゃないし、完璧な母親でもない。結婚って、お互いの妥協だよ、妥協」
 身もふたもない、人生の先輩からの深い言葉であった。
 コメントすら思いつかず遠い目になる利一だが、彼女は相変わらず幸せそうに笑っている。
 至輝が「いい加減にしろ!」とフジを怒鳴りつけて、席を立った。
「帰るぞ、利一。夫婦で話すこともあるだろう、俺たちは邪魔だ」
「・・・・・・そうですね」
 利一も同意して席を立った。
 玄関まで見送りに出ようとする妻を「体が冷える」と言って押しとどめているあたり、フジはいい夫に見える。
 フジの家を出てからは、至輝の専任ドライバーに連絡を付け、家まで送り届ける。そんなものはいらんと断られたが、仮にも主家の次期当主なので、ここは譲れない。そういうわけで、酒も控えめにしか飲まなかった。
 春日の屋敷に帰り着いたのは午後十一時。
 中途半端なので飲みなおそうかと思いつつ台所に行くと、帰宅したばかりらしい従妹の夏江が食事をしていた。
 英語が堪能な彼女は、現在通訳、翻訳を主な仕事としている。帰宅時間が安定しないので、だいたい定時に終わる利一の話を聞いては、職を変えようかとぼやく。
「あ、お帰り」
「夏江もお帰り。今日も遅かったんだな」
「そーだよ、通訳でおっさんどもの会食にまで付き合わされた」
「食事出たんだろ?なんでまた食べてんだ」
「あんなん飾り。食べるどころじゃねぇもん。しっかもセクハラかましやがってクソじじい、業務外だっつの」
 非常に口は悪いが、昔に比べれば気性は穏やかになった。
 飲み直しにさそってみたが、明日も仕事だと断られたのでお茶を淹れた。
 淹れる間もずっと、夏江の愚痴は続いている。
「あんなエロ狸が会社の運命握ってるとかねぇわ。まだまだ社内掃除が足りねぇな」
 夏江が働くのもまた宮野の会社である。
 多くの春日の間者はこのようにして一般社員に溶け込み、そこから得られる情報を横流ししている。もしくは噂などを流して情報操作する場合もある。
 意外にも、間者とは地味な仕事だ。
 ここに来たばかりの頃は、もっと謎めいた存在だったはずなのに。
「今日、フジんとこ行ったんだろ?どーだった?」
「ああ、夏江のとこにも誘い来てたのか」
「うん。エロ狸さえいなければ行ったんだけど」
「すき焼きうまかった。みんな元気そうだったし」
「ふうん」
「あ、そういえば、三人目が出来たかもって」
「え、ほんとに?うわー、ちょっとそれ、メール・・・は今の時間よくないか。明日電話しよ」
 夏江はフジの妻と仲がいいのだ。
「まだ確定じゃないって言ってたから、あんまり騒ぐなよ。っつか、他に言うなって言われたし・・・・・・あと、前の流産のことも気にしてたみたいだし」
「うん、わかってる。――で、フジは喜んでんの?」
「よくわかんねー。だってフジ、至輝様にさっさと菜々美を押し倒せって言い始めんだぞ。今孕ませればうちの子を影役にできるからって」
「うっわ、すげぇ皮算用。最低」
 あからさまに夏江は顔を顰めた。
 男の利一が聞いても最低にしか聞こえないセリフである。夏江からすれば軽蔑に値するだろう。
「まあでも、十家だしそんなもんか」
 ――と思われたのだが、理解も示した。
 この従妹は自分の感情に非常に素直なのだが、考え方が合理的でもあるのだ。なんとなくの善悪や目の前にいる人が見せる感情に左右されてしまう利一とは違っている。
 フジは、利一の考え方はそれでいいのだと言った。ここは一族というものに縛られて考え方が凝り固まっている。だから、外の、ごく一般的な考え方をする利一が上にいることに意味がある。だから頭領になれ、と。
 利一は自分の考え方が間違っているとは思っていない。しかしフジたちが主張することに合理性があったり、正義があったりするとも知っている。その齟齬が、いつか利一と、春日の人々との軋轢になるのではないかと言う恐れも少なからずある。
「あー・・・夏江」
「なに」
 だから、春日の考え方が出来る夏江が頭領になった方がいいのではないか。
 もしくは――
「・・・いや、やっぱいい」
「なんだそれ」
 新しい考え方をもたらす役目を利一が、春家と一族をつなげる役目を夏江がするのもいいのではないかと思うのだ。
 フジはそれに反対しない。ただ、何も口を出してこない。あとは、二人次第だと言いたいのだと察している。
「言いかけたならついでに言えよ」
「いやぁ・・・もうちょい考えがまとまってから言う」
「ふうん?馬鹿なんだから考えすぎるなよ」
「・・・・・・うん」
 いくらなんでも、合理的な考えだけで結婚を申し込むのはどうかと思うのだ。
 











*補足

 利一は一浪の末、可もなく不可もない大学に行ってコネ入社。就活経験なし。書類仕事はちょっと苦手。営業も、フジの口車っぷりを間近で見たせいで自分はこれ得意じゃないと思っているが、席に座りっぱなしより好き。
 夏江は利一と同い年。推薦で私立の外国語学部に現役合格。社会人としては利一より一年先輩。コネ入社なので就活経験なし。
 フジは大学在学中からいろいろやってた。競合他社に新卒採用されて働いていた経験あり。もちろん産業スパイ的なやつ。ここでブラックな現実を目の当たりにして合理・効率主義に目覚める。妻にせがまれてウェディングドレスを着て、夫婦どっちもドレスな写真を撮ったというエピソードを入れようとしてあえなく挫折。
 至輝にかんしては御曹司として当たり前の人生を送っている。婚約者は、彼女が中学生の頃に目を付けた。たった五歳差なので、特殊な性癖扱いにはならないはず。

最後に。 このお話は最初から最後までフィクションです。犯罪行為は慎みましょう。




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