12−そして、告げる
「あなた、ばかなのね」
口をついて出た言葉は、ちんけなものだった。そして正直な気持ちだった。
車椅子に乗った私の背後にいた彼は、言葉を返してこない。唖然としているのだろう。彼の反応は当然と言える。私は今の今まで思い返していた過去と言葉を交わしていたから。
まあ、思い出に浸っていたとはいえ、彼に対する感想は事実なのだが。
「ねぇ、あなたは、何を祈るの」
ああ、まだ私は回想から戻りきれないでいる。彼からすれば、私の発言は唐突なことばかりだろう。そんな会話しか出来ない自分が嫌になる。
だが彼はそれを指摘することはなかった。
「何、を?」
鸚鵡返し。
「何に、何を、祈るの?あなたは私に聞いて、私は答えたわ。でもあなたのことは聞いていない」
「ぼくは・・・・・・」
戸惑う声。
私は不思議に思って彼を振り仰いだ。
驚くことに、彼は狼狽していた。なぜそのようにうろたえるのだ。あれだけ人に聞いておきながら、己では何も考えていなかったと言うこともあるまい。
「別に、言いたくないならいいのよ」
そう告げるのだが、彼は気まずそうに沈黙を寄越す。
「あなたは、私に祈れと言ったでしょう。他の人たちのように、あの樹に願いを託せばいいって。でも私は祈ろうとは思わないの。無意味だから。――あなたにこの意味が理解できるかどうかわからないけれどね、」
息を吐く。
苦しさを紛らわせるための、無意味な動作だ。
「私は、今、幸せなのよ」
伝わるであろうか。この、私の本心が。
口に出した瞬間、嘘のように響く。真実であるのに、軽々しい。
「与えられたものには満足している。満ち足りてるのよ」
描かれるような美しい世界は存在しない。理想は遠くに霞んでいて、全然思いどおりにならない。不満が募り、不安が心を揺らしていく。
だけど私は、それすら楽しい。
私が見聞きし、体験し、感じたもの全てが今の私を作り上げた。そして私は、今の私が好きだ。
だから私は、『私』を作り上げたもの全てに感謝している。
この私を作り上げたものたちを「神」と呼ぶのならば、肯定しよう。
けれどそれに祈ろうとは思わない。次の幸福は、欲しいものは、自分で手に入れられる。できる能力を、すでに与えられている。
「でも、きみは」
風のささやきに負けそうなほど小さな声で、彼が言う。
「愛おしい人に、傍に居てほしいと言ったよね。その人を手に入れて、他のほしいものまで全て手に入れられたらと思わないの?苦痛が去れば、その病気が治ればと思わないの?時間がもっともっと欲しいとは思わないの?」
「思うわよ」
「じゃあ、なんで」
「ねえ、これ以上は平行線だと思うわよ。あなたは理由が欲しいんじゃなくて、私に祈って欲しいんでしょう?」
彼が望むもの、そんなの最初からわかっていたのだ。私は相手が望むものを察する能力に長けているのだから。
「あなたは、私を自分の理解の範疇に収めたいのね」
「ちがう・・・」
「あなたの常識では、普通の人は祈るのよね。奇跡を求めて。――悪いけれど、私が変わる可能性はほぼ皆無だわ。嘆くならば、あなたの狭い認識能力を嘆くのね」
「そんなんじゃ、ない」
私は努めて優しく言ったけれど、返る彼の声は擦れている。
「そんなんじゃない。ぼくは、」
「どうして人は祈るのかしら?」
彼の言葉の先を言わせないために、私はそれを遮った。
「どうして・・・」
「祈ったところで、成功の確率が上がる?そんなばかなこと、あるわけないわよね。みんなわかっていて、それでもああするの」
「・・・・・・結果や、見返りを、求めてるわけじゃない」
「そうね、あなた前にも言っていた。一方通行なのよね」
想いが一方通行。片想いと似ているって。
「好きになって欲しい、他の人と仲良くしないで、傍に居て、私だけを見て、笑いかけて、ずっと好きでいて。――これを言って、幸せになれる?無理でしょう?強要なんて出来ないわ。想ってもらえるよう、自分を磨くしかないの。そうしてすら、確実じゃないけれど。
わかるでしょう?やるべきことを間違えているのよ。語らなくていいの、綴る必要もないのよ」
視界がゆらゆらと揺れて、思考が乱れてきた。
胸が熱くて苦しい。熱が出てきたのだ。
「本当に、利己的ね。恋も、祈りも」
正常な判断ができるのも、あとわずかな時間。
だから私は断ち切らなければならない。
隣に並んだ青年を。
「他者に背負わせることが祈りならば、私は祈らない。必要ないの」
彼がいつか私に渡した、メモ帳から破り取られた紙。私はそれを、彼へと差し出した。
託すのは、求めるのと同じこと。強要するにも似た行為だ。相手の想いを背負わなければならない。目の前の樹は、つまり、義理もない相手から重いものを背負わされているのだ。
私には出来ない。されるのも御免被る。
けれど、彼は私が返そうとするそれを、静かに拒絶した。
「じゃあ、これはぼくのわがままでいい」
私はその先を遮ろうとした。けれど、痛みが呼吸を邪魔して、呼吸の乱れは喉を圧迫した。
――聞いてしまったら、いけないのに。
「ぼくは、きみに生きていて欲しい」
目を閉じた。――胸の中心が重い。
「きみみたいに、ぼくは優しくなれない。物分りよくなれないよ。これ以上を相手に求めて何が悪い。紙に書いて結ぶ、それのどこが悪いんだ。こうして告げることと、何が違う」
押し殺された声が、重く、重く降り積もる。
もう聞きたくない。けれど耳をふさげない。
「私は、――」
「ごめん」
彼は私に何も言わせたくないらしい。――違う、「何も」ではない。望まぬ言葉を聴きたくないのだ。
彼は一人、私をその場に残して樹の傍へと立つ。幹に手を当てて、重い枝葉を見上げている。何も言わず、動きもせず。
祈っているのだろうか。
私が、彼の望む言葉を言うことを。
互いに、我慢比べをしていたのかもしれない。長い間、動くのは風と枝葉だけだった。
私は気力を振り絞って立ち上がり、背筋を伸ばし、樹へと歩み寄る。
空へと手を伸ばすが、枝は掴めなかった。いつの間にかそれを見ていた彼が、枝を一つ引いて、私の手の届くところまで降ろしてくれる。私はそこへ、長細く畳んだ紙を枝に結び付けた。
彼を見る。けれど彼はこちらを見ない。
通じ合えない。分かり合えない。理解しあえない。伝わらない。
どうしてこんなにも、もどかしいんだろう。
「ねぇ、私は、私にかかわるもの全てを愛してる。ただそれが在るだけでいいの。それで満足できない?」
祈ったって、何一つ変わらない。
みんな知っているはず。知っていて、祈っている。
彼が私に背を向け、肩越しに振り返る。
「・・・戻ろうか」
せっかく忘れかけていた涙が、すぐそこまで迫っていた。けれどそれを無理やり嚥下する。
言ってもよかったのだ。けれどそれは私の自己満足であって、彼は何も満たされない。そう知っていたから、その言葉は、涙の素と一緒に飲み込んだ。
――私はあなたも愛してる。
次の日、庭の大樹はその太い枝を落とした。
裂けた幹が痛々しく露出した姿は、樹の死を全ての人に理解させた。