10−選択
苦しい。痛い。重い。体が自由にならない。
どんな言葉でも表現できない、マイナスの感覚ばかりが脳内を占めている。
重さに耐えかねて身じろげば、たったそれだけの動きが体の底で新たな痛みが生まれる。その繰り返し。薬が効くのを待つしかないが、効いたところで完全に苦痛を取り去ってはくれない。
意識を一点に集中できない。だから、ベッドの傍らに姉がいることに気づかなかった。いつから居たのだろうか。
「・・・・・・出て行って」
呻くように言う。姉はいつも通りのすました顔を変えない。
「最初の台詞がそれ?さすがに、あきれ果てるわよ」
「こんな姿見られて平静でいられるほど、平和な生き方してないの」
「私はあなたの敵じゃない」
「それでもよ。プライドの問題。嫌なの。出て行って」
これが母なら、「あなたは敵を作りすぎだ」と説教を始めたかもしれない。でも姉が主張するのは、私たち姉妹が敵対しないという点。
姉が病室を出て行く。
誰も居なければ、取り繕う必要がない。弱みを見せなくて済む。
しばらくして、苦痛が少しだけ引いてきた。これくらいならば、対峙する相手に不調を悟らせない程度に取り繕える。私は病気とは無縁の健康体だったけれど、怪我は時々していた。そのときに痛みの耐え方を覚えた。要は、精神力と慣れである。
見計らったかのように、姉が戻ってきた。いつも和装が多い姉の、めずらしい洋服姿だ。つまり、普通に公道を行く二十代女性の格好である。これが驚くほど似合わない。
「どう、落ち着いた?」
「ええ。でもさっさと帰ってね」
薬が効いている、すなわち頭がうまく回らない。回らない頭を使って会話して、変なことを口走りたくない。
「久しぶりなんだから、少しくらい現状を話しなさい。そもそもあなたね、入院していないとつかまらないっておかしな話よ?」
「忙しいの。そもそも入院だってしていたくないの」
病気が発覚してから入退院を繰り返しているが、退院している間は忙しい。やることだらけだ。そうなれば、姉と会う時間などない。
「話すこともないわ。今頭が回らないのよ。お願いだから早く帰って」
「でも口はよく回っているようね?まったく、心配かけるのはほどほどにしてちょうだい」
「心配なんて必要ないわ」
「そんなこと言うなら、弓弦に言うわよ。このこと」
「・・・・・・脅し?」
「いいえ。でも、会いたいでしょう?」
「・・・・・・」
核心を突いてくる。姉のこういうところ、苦手だ。
この人は、何事も派手に行動するのが好きな私と違って、自己主張をしない。しないくせに、自分のテリトリーはしっかり守っている。己を曲げない。本当は頑固なくせに、その片鱗を一切見せず、つんと澄ました顔で生きている。
私が姉とうまくやってこられたのは、こういう姉の性質があったからだと思う。
こうでなければ、妹たちのように私と一線引くはずだ。
「・・・マキが言わなくたって、たぶん、フジが連れてくるわ。電話してきたもの」
「あら。決心がついていたの?驚きだわ」
「そんな綺麗なものじゃないわよ。軽いあきらめ」
そういうと、姉はすっと目を細めた。
「・・・薫。あなた、何を企んでいるの?」
「人聞きの悪い言い方ね」
「あなたはあきらめるなんてことしないわ。何をあきらめて、何を手に入れようとしているの?」
「ああもう、嫌だわ。これだから頭の回らないときにマキと話したくないのよ。帰って」
「あらあら。あなたが白旗を揚げる日がくるなんてね?」
「マキ」
取り繕いきれなかった苦痛が、声に現れてしまう。
この人は、本当に厄介だ。
「情報はちゃんと入ってきているの?弓弦のことも、他から聞いている?」
「聞いているわよ」
「なのに、まだ会わないの?」
「たぶんフジが連れて来るって言ったでしょう。何が言いたいの」
「逃げるつもりじゃないの?」
「・・・・・・」
姉は、私に治療に専念して欲しいのだ。だから、私の想い人の名を挙げる。彼は、未だに私の病状を知らない。知られないために会わないのだ。
知られてしまえば、私は、―――
「マキ。私は、どういう風に生きるかもう選んだの」
「なら、会おうが会うまいが変わらないでしょう?」
「変わるわ」
「いいえ、あなたはどんな状況でも自分を変えるような人間じゃないわよ」
「もう帰ってよ。頭が回ってないの。まともな会話なんて出来ないわ」
以前の私ならこの姉だって簡単に言いくるめることが出来た。
だめだ。頭の中がもやもやして、言葉が浮かんでこない。
「あなたはもっと、自分に正直ではなかった?」
「今も正直よ。マキが以前、欲に忠実すぎるって評価した、あの頃と一緒」
「薫。あなたは一度だって、本当に欲しいものは我慢しなかったわ。なのになぜ、弓弦のことはあきらめるの」
「あきらめてなんてない。これでいいのよ。本当に、早く帰って」
苛々してくる。
姉との会話に苛立ちを覚えたことなどほとんどない。
姉は昔から聡く、要領のいい人間だった。敵に回る片鱗があれば、私は姉をなんらかの形で遠ざけていたと思うほどだ。
この人は、確かに私の血縁者なのだ。
姉が立ち上がる。仕方ないわね、と言わんばかりの表情だ。
「マキ」
「なあに?」
なぜ去ろうとする姉を呼び止めたのか、自分でもわからない。
これ以上喋らないのが、私のためだというのに。
「あきらめてないのは本当なの」
「・・・・・・ええ、そうね」
姉が同意して、ぱたんと扉が閉まる。
あの表情が意味するものはなんだろうか。私にはもうわからない。
彼女が出て行った扉をしばらく見つめていた。
その見つめていた扉が間もなく開いたのは、まったくの偶然なのだろうか。
そこには見慣れた白衣の男が立っていた。
「さっき来ていたのは、ご家族だよね。お姉さん、だったっけ」
私は口を開くのも億劫で、ただ彼の姿を見つめていた。
「顔立ちなんかは似ているけど、雰囲気が違うかな」
「・・・・・・」
雰囲気。そう、確かに昔からよく言われていた。姉妹の中では私だけが異質なのだ。そのほかの大勢の中に入れられても異質と扱われるだろうけれど。
ぼんやりとそんなことを考えて、目を閉じる。
この瞬間も、体は苦痛に侵されている。それを表情に出すまいとすれば、まともなことなど考えられない。
「・・・薫子さん?」
誰にもこの苦痛は癒せない。これは、明白すぎる事実。
まぶたを持ち上げると、彼の心配そうな顔が目に映る。
彼は何も言わなかった。人類は言葉をたくさん持っているのに、こんなときにふさわしい言葉を持っていないらしい。すなわち、誰も手を出せない苦境にいる人間に対しての言葉を。
「ねえ」
言葉すら持たぬ哀れな彼に、私は問いかける。
「・・・なに?」
「外に出たいの。手を貸してくれる?」
私はどんなときも自分の足で立ち、背筋を伸ばしていたかったの。けれど、あなたは「自分の手助けで彼女の苦痛を少し和らげた」と思いたいでしょう?
「・・・・・・車椅子、使う?」
「この際ストレッチャーでも構わないわよ」
「車椅子、持ってくるから待っていて」
彼は少しだけ笑った。