09−片恋


 中庭への出入り口にはベンチが置かれていて、そこには先ほど私に笑いかけた優男が座っていた。他に人の姿はない。普段からそうだった。樹に「白い紙」を括り付けに来る人ばかりで、憩うための人の姿は驚くほどに見られない。――もっとも、すでに冷え込みが厳しくなりつつある。今日はよい日和といっても、病人怪我人には毒だろう。
「あ、来てくれたんだ」
「そうね。時には外に出ないと」
「体は、つらくない?」
 彼は私に座るよう促した。
「つらいと言えばつらいけれど。受け入れてしまえば、こんなものかで済むわ」
 単純に、痛い。体を動かせば、いちいち疲労感が伴う。人生の大半を健康そのもので生きてきた私にとっては、確かにもどかしくつらいことだ。
 でも、もっともつらいのは、頭の中に靄がかかり思考が阻害されること。
「苦しいときは、そう言って。きみは表情をあんまり変えないから、心配だよ」
「顔って、自分の情報を相手に与えてしまう、もっとも面倒な場所なのよ。知ってる?」
「言いたいことはわからないでもないけど、・・・面倒?」
「こっちの内心を、表情から読み取られるってことよ。素直に表情出してたら、弱みを握られる可能性だってあるわ。へらへら馬鹿正直に笑っていられるわけないでしょう」
「でも、つらい時につらくないふりなんてしていたら、麻痺するよ。心や体がゆがんで痛みを蓄積していっても、わからなくなる。わからないまま限界がきて、突然ぷつん。――となる。だから、無理しちゃだめ」
 私は微笑んで彼を見つめた。
 その微笑には、少しだけ痛みが混じってしまった気がしていた。
「あなた、弓弦とは正反対のことを言うのね」
「え・・・・・・?」
「あなたみたいなことを言ってくれる人だったらよかったのかしら。わからないわ。――うれしいのよ。あの時弓弦が言ってくれたことも、今あなたが言ってくれたことも。だけど、どうしてかしら?」
 ――「きみの魅力は、その賢さと心の内の強さだよ」――かつて言われた言葉を耳の奥で反芻する。私が私であることを肯定してくれた。他者と喜怒哀楽が共有できず、そんな理由で自分は孤独だとばかみたいに嘆いていた、あのころの私を、それこそがいいのだと言ってくれた。
 だけど今もらえた、正反対の言葉も、うれしかった。
 矛盾している。
 私を私とたらしめたもの、それを捨てろと言われたも同じ事なのに。
 以前の私なら、腹を立てた。きっと目以外で微笑んで、その場を去ったはずだ。
「つらいことに慣れていないのね。ほぼ全部自分で解決できたから。でもこれは、医者を頼ろうが何しようが、解決できない。だからね、きっと」
「・・・・・・力至らず、申し訳ない」
 隣の彼が謝る。私の少し先の未来に対して謝罪したのかと思った。でも違った。
「その苦しさを今すぐ取り除くことが出来ないのは事実だけど、あきらめないで。前も言ったけれど、末期と言われても治った例はあるんだ。人間の生命力を信じたらいい。きみは、心も体も強い人だ。奇跡さえも、自ら引き寄せる。そういうひとに見えるよ」
「私もそう思っているわよ」
 治ることを、諦めたわけじゃない。ただ、治らない可能性、――言ってしまえば、近いうちに別れを告げなければならない可能性も冷静に受け入れているだけなのだ。
 そして悲しいかな、生き延びる可能性のほうがはるかに低いことがわかっている。
 紙切れよりも薄っぺらな可能性を信じ、全力を尽くす人こそすばらしい、というのが世間一般の意見だろう。もちろんのこと、私だってあきらめて投げやりな人間なんてすばらしいとは思わない。勝手に死ねと思う。
 だけど。
 やりたいことがたくさんある。それを一つも終えることなく死ぬほうが、嫌だ。小さな可能性にだけ賭けるほどの愚かさや大胆さは持ち合わせていない。
「――私はこの命を手放すその瞬間、己の生き方に対して間違ったとは思いたくないの」
「・・・」
「生きることをあきらめたわけじゃない、いつ死んでも後悔しないように生きているの。大丈夫よ、心配してくれてありがとう」
 彼は黙る。
 言えるはずがない。きっと彼は、人の死に行くさまをいくつも見ている。私がちゃんとそれと向き合えているかどうかくらい、わかるのだ。
 華やかな声が聞こえてきた。視線をやれば、十代半ばと思しき三人の男女が中庭へと出てくるところだった。彼らは健全に見える。入院患者の友人なのだろう。
 彼らはちらりと私たちのほうを見た。が、すぐに樹のほうへ歩いていった。その歩調も、軽やかで楽しげだ。彼らの友人は、命に関わらない怪我か病気なのだと推測される。
 背の高い一人が枝をつかんで、背の低い一人が紙を長細く折りたたんでその枝に結びつける。
 最後に三人並んで手を合わせた。手を合わせるという行為に宗教的意味はないと思われるが、これは日本人に染み付いた習慣なのだろう。
 一人がぱっと身を翻して、走って館内へと戻っていく。二人が笑い声を上げながらそれを追った。
「・・・・・・きみは、祈らないの?」
 ぽつり、と隣の彼が言う。正面の樹を見上げたまま、表情を浮かべずに。
 私に向かって提案をしておきながら、何も感情を表に出していないところが少しだけ不思議だった。
「祈るって、何に、何を?」
 そして、彼の質問の内容は心底不思議だった。
 彼は私の言葉に、びっくりしたようにこちらを向く。
「何に何をって・・・・・・さっきの子達、見てなかった?」
「見ていたわよ」
「知らない?あの樹に願い事を書いた紙を結びつけて・・・」
「知っているけれど、無意味でしょう?」
「無意味?」
 彼は本当にびっくりしたようだった。
 なぜ驚くのだろうか。その反応にこそ、私は驚いてしまう。
「無意味・・・って言う人は、初めてだ」
「似たようなこという人はいるでしょう?眉唾だとか、気休めだとか」
「無意味と切り捨てるのと、気休めでもやってみようかというのはぜんぜん違うよ」
「そうかしら?」
 心の底では信じていないのだから、同じだと思うのだが。
「・・・・・・以前、ぼくはきみに聞いたよね」
 彼は再び視線を逸らし、樹を見上げている。
「人は何のために祈るんだろう、って。きみの答えを、ぼくはまだ聞いてなかったように思うんだけど」
「ああ、そんなこともあったわね」
 あの時はまだこの男と長々と喋ろうとは思っていなかったから無視したのだ。
 今は、――どうしてだろう。こうして喋ることが習慣になっている。
「祈るのは自分のためよ。背負ったものが重たいからって、誰かに押し付けるのと一緒」
「そんな、理不尽な行為じゃないと思うけど」
「そう?そうね、例えば宗教的な意味の神に祈るというのならば、いいんじゃないかしら。私は特定の信仰する宗教をもっていないから、宗教的な神がどんなものなのか正確には知らないけれど」
「そんな難しい会話だったっけ・・・・・・?」
「別に難しくないでしょう?言い回しがくどかったかも知れないけれど」
「うーん・・・・・・とにかくきみは、本来祈る相手は神、だけど信仰する宗教がないから、祈らないってこと?」
「簡単に言えばそうね」
「樹にああして祈るのは、理不尽?」
「とてもね」
 どんな人だって、この樹の姿を最初に見たら、異様な光景と思うはずだ。理由を聞いたら、ほとんどの人は納得して、自分も同じようにこの樹に願い事を書いた紙を結びつける。たいていは、怪我や病気の平癒祈願だ。
 私は理由を聞いたとき、嫌悪感を覚えた。そして、あの樹を哀れんだ。
「私だって不安で不安でたまらない瞬間があるわ。痛い、苦しい、しんどい、なんで私が、って。だけどそれを紙の上に書き散らしたところで、樹に奇跡は起こせないのよ」
「みんな・・・不安を吐き出しているだけだよ。そんなことわかってるんだ」
「そうでしょうね。でも、吐き出したいだけなら、泣けばいい。叫べばいいわ。どうしてわざわざ樹に託すの?」
「・・・・・・」
「無意味なのよ。奇跡はないのにああして樹の成長を物理的に阻害する。不毛だわ」
 自身の口調が尖っていくのが分かる。
 どうして苛々しているのか。――簡単だ、嫌な夢を見たから。
 夢が、過去が、フラッシュバックする。思考を妨げる。
 何よりも、以前の私ならこんなことなかった。ちゃんと考えたいものに集中できた。
 私はすでに、己の体の主にすらなれないのだ。
(――生きていくのは、けっこうしんどいものだからね)
 ああ、誰が言った言葉だっただろうか。
 生きていること、この世界を感じること、それは私にとって幸福だった。楽しくて仕方がないことだった。
 今は、――そう、思い通りに行かなくて、歯がゆくて、時々疲れたと思う。以前のような満ち足りた感がない。
 でも誰かに寄りかかるのは嫌だ。己の足で立って、歩むことが出来なければもっと苦しくなるに決まっている。
 しばらく彼は何も言わなかった。
 私も喋ることに疲れていた。すでに体が苦痛を訴えて、思考を阻害しつつある。薬の効きが悪くなっているような気がする。
 彼が立ち上がった。見上げると、視線が合う。
「・・・・・・片想いに似てるね」
「え?」
「想いが一方通行。似てるね」
「・・・そうね」
 彼はふいに懐からメモ帳を取り出して、一枚破いた。そして私に差し出す。
「いいじゃないか、それでも。想うくらい、両想いになることを祈るくらい、きみの自由だよ。誰だって、それくらいの寛容さは持っている」
 紙片を受け取る。
 何も書かれていない。
「そろそろ中に入ろう。体が冷えたんじゃない?」
「・・・・・・ええ」
 彼が差し出す手を、私はとらずに立ち上がる。






BACK   TOP   NEXT