04−自己同一性


 人気のない長い廊下の一角。人が滅多と座らない長椅子。
 一日のうちかなり長い時間日当たりがよいのだが、午後の数時間は特に読書に最適だ。うたたねでもいいのだろうけれど、私はそんなことをするほど暇ではない。
 速いペースでページをめくる。以前、これをぱらぱらとめくっただけで頭を内容に入れることができる人に会ったことがある。あの能力は、便利だろう。うらやましい。
 私だって訓練である程度の速読は身につけたけれど、あれには到底及ばない。
 ああいう能力があれば、残された時間でも大量に知識を得られる。知識があれば思考の幅が広がるのに。
「ああ、今日は読書なの?」
 ページに影が落ちた。
 私は一瞬いらだったが、すぐに収めた。――すでに慣れたこと、そして彼のおとないがうれしくないわけじゃない。
「またあなたなの?」
「あーあ、また邪険にするんだから」
 そこにいるのは、見慣れた白衣の優男。
「私に残された時間は長くないのよ。なのにやるべきことは山とある。あなたととりとめもない会話をしている場合じゃないの。おわかりいただけない?」
 わきあがってくる感情は、苛立ちよりも、すでに呆れだった。わざわざ私みたいな人間の相手をしなくたって、彼にもするべきことが山とあるはずだ。彼からの治療や彼との会話を求める人だっているだろうに。
 きっと彼はばかなんだと思う。――決して悪い意味じゃなくて。
「・・・・・・あんまり自棄にならないで。末期と言われた人だって、治った例はたくさんあるんだから、」
 やけに沈黙が長いと思ったら、そんなことを言ってきた。私はいよいよ呆れかえる。
「自棄になんかなってないわ。そんな暇、あるわけないじゃないの」
 さっき残された時間が長くないと言ったばかりではないか。そんな意味も汲み取れないのか。
「うーん・・・なんて言えばいいのかなぁ」
 彼は唸りながら私の隣に座る。いつもどおり、缶ジュースを差し出しながら。
「残された時間がわずかなら、・・・いや、本当にそうだと言っているんじゃないけれど、例えばね?例えそうならば、逆にそんなせかせかしなくてもいいと思うんだけど」
 私は本を閉じて、彼のほうを見て首をかしげた。
「なぜ?」
「なぜ、って。最期くらい、ゆっくりのんびりしたって誰も怒らないよ?」
「そうしたい人はすればいいと思うけれど、私はそれに価値を感じないわよ」
「たとえば家族と色々しゃべったり、友達と遊んだり」
「それは、したいからするんでしょう?楽しいから、うれしいから、幸せを感じるから。そうやって生きてきたことを振り返って、恵まれていることを知って、幸せを感じて、穏やかに死に臨め、と」
「・・・そう。振り返る時間なんて持たないまま生きている人が多いんだ。だからそうやって振り返ればいい。ゆとりがなくちゃ、できないことだよ」
「あなたの言いたいこと、なんとなくわかってきたわ」
 私は苦笑した。
「あなたには、私が幸せに見えないのね?」
「・・・・・・」
「どうも表現が青臭くなってしまうけれど、生きていることや生まれてきたことに幸せを感じたり、自分を生かしてくれる周囲に感謝したり――そういうことができない人間に見えるのね?簡単に言えば、冷徹とか冷血、かしら?」
「・・・・・・ええと、ね?」
 彼は戸惑い、そして狼狽していた。図星のようだ。
「決してきみの悪口を言っているわけじゃなくてね・・・?」
「最期くらい振り返って、いかに自分が幸せだったかをかみ締めて、そして感謝でもしなさいって?」
「・・・・・・なんだかなぁ。きみには敵わないらしいなぁ」
 彼は深々とため息をついた。人のことを冷血扱いした上にこのため息、失礼にもほどがある。
「私は、これでも誠実に生きてきたわよ」
 明言すると、彼は戸惑った。そうは思えない、とでも言いたげだ。
「生まれたこと、生きて来れたこと、本当に感謝しているわ。この世は本当に楽しいところよ。ただうれしいと思うこともだけれど、悲しさや怒りでさえ、感じるすべてが愛おしい。大好きよ。大好きだから、私は全力で生きてきた。今もそう、やるべきことが山のようにあるの。振り返るまでもない、やるべきことが、私の大切なこと。それらと全力で向かい合うことが私の幸せ」
 この気持ちを真に理解するのは、家族でもなく、友人でもなく、恋焦がれる人でもない。同じ思いを抱えるがゆえに衝突するしかなかった、幼馴染だけ。
 生きてきたのはたったの二十年だけれど、その辺に生きている二十歳の人間よりよほどたくさんの人々と関わってきた私が、たった一人しか理解者を見つけていないのだ。
 だから、目の前の優男に理解してもらえるとは思えない。
 予想通り、彼は沈黙した。とても長い間。
 私は本をたたんで、窓の外へと目を向ける。
 今日はよく晴れている。中庭の樹は、空へと枝葉を伸ばす。だがしかし、それを邪魔するかのように、枝には白いものが巻きついていた。
 そして今も、新たに樹を地上に繋ぎ止める白い鎖が結ばれる。
「きみは、誰かと一緒に過ごしたいと思わない?人間が、嫌い?」
 いつの間に私の視線の先を、彼も見ていたのだろうか。
 ――中庭では、患者らしき車椅子に乗った男性と、その家族と思しき若い夫婦とこどもがいる。枝に紙を結び終えたのはこどもで、結んだ後は楽しげに跳ねて、車椅子の男性へと駆け寄る。
「私にかかわるすべての人を、私は躊躇いすらなく愛していると言えるわよ」
「ぼくのことも?」
「ええ。――でもそれだけよ。在るだけで幸せ。他の人がどうしてそれで満足できないか不思議なんだけれど」
「全員に対してそうなの?――そんなわけないだろう、きみは理解者を求めたくらいだ。嫌いな人がいないというのは事実としても、特別に大事な人、傍に居て欲しい人がいるんじゃないの?その人と過ごそうとは思わないの?」
 私は少しだけ笑った。自分に対する、嘲りだ。
「私がこうして残り少ない時間を必死で生きているのは、その特別に好きな人を手に入れたいからでもあるわよ。――まあ、動機の一割くらいだけれど」
「・・・じゃあその人に言えばいい。今日一緒に、明日も一緒にいて欲しいって。きみがその人に心底嫌われているわけじゃないんだろう?」
「馬鹿ね。すべての人が、好き嫌いを言えばうまくいくわけじゃないわよ」
 私たちの場合は特殊だと思うけれど。
 そこまで説明する必要はないだろう。
 私には欲しいものがたくさんある。好きな人のためにすべてを投げ出すほど愚かになれない。それだけじゃない。
「あの人と共に居るだけで満足できる私なら、あの人は私に価値を見出さない」
「・・・在るだけで、幸せだって言わなかった?」
「在るだけで幸せよ。充分に幸せ。だから今のままでもいいの」
「矛盾してない?傍にいてほしいってことは、もっと幸せになりたいってことじゃないか。それを求めたらいいってぼくは言っているんだよ」
「でもきっと、好きだと口に出して、好きだと答えられて、傍にいていいといわれた瞬間に、私はそれ以上を求めるわ」
「いいじゃないか。好きあっていて傍にいるだけだなんて、――」
「今の私なら、きっとあの人を殺すわ」
 面倒な説明を省けば、そういうことになる。命をとらずとも、きっと壊してしまう。
 それを抑えて普通の恋人をやろうとすれば、きっと相手が私に飽きる。そういう関係なのだ。
「この世から消えていくことに恐怖しないほど私は悟っていないわ。傍にいればきっと、一緒に死んでと言っているわよ。馬鹿よね、死後を信じているわけでもないのに、一緒に死んでどうなるっていうのか。でも、あの人なら、すべて承知で殺されてくれるんじゃないかしら?」
 けれども最後ぎりぎりのところで、私はあの人に「死んでほしくない」と思ってしまう。一緒に死んでほしいなんて感情よりも、この世のおもしろさを知ってほしいという思いのほうが強いから。
「一応弁明するけれど、殺したくない気持ちのほうが強いのよ。だから傍にいないという選択をするの。――・・・・・・ごめんなさい、引くわよね、こういうのって。別に気分を悪くさせようと思ったわけじゃないの」
「いや・・・・・・」
 隣に座る彼は言葉に困ったようだ。
 私自身、異常だと思うのだ。
 でもこれでいい。この異常さを知れば、彼はもう近づいてこないだろう。
 それはほんの少し寂しいことではあるけれども。
 私は椅子から立ち上がった。彼のことは振り返らない。ただ少しだけ名残惜しかった。だから彼と見ていた窓の外、中庭の風景を見る。
 新たに人が中庭を訪れ、そして例に漏れず枝に紙を結び付けていた。
 そんな私の背中に、戸惑いを含んだ柔らかな声がかけられる。  
「・・・ねえ。明日も一緒に居たいから、今日を一緒に過ごすんだよ」
 私は振り返った。
 視線の先にあるまなざしは、やさしい。
「私は、――」
「きみの考え方を否定したいわけじゃない。むしろ、根本は同じだよ。――自分が居て、相手が居て、明日があることを望んでいる」
 言いたいことがわからないわけじゃない。
 でも私は、彼に背を向ける。
 だって、私は決めたことを覆す気などないのだ。私はそうして生きてきた。その生き方が私を私とたらしめた。最後の最後で、私であることを捨てられるわけがない。






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