02−理解者


 時折、幼馴染の少年が訪れる。
 彼との会話は苦痛にならない。体は大丈夫なのか、と聞かないし、無理はするなとも、もうやめろとも言わない。
 けれどいつも、病室に入った瞬間に、ほんの一瞬だけ顔をしかめる。呼吸をしたときに、だ。
 薬を飲み始めて、私の体臭が変わった。あの薬の成分が、体に染み付いているのだ。彼はそれに気づいている。――死が近づいてくる、その足音に気づいている。
「外にでも、出るか?」
 ある日唐突に誘われて、二つ上の階の喫茶室に行った。
 検査や検診がない限り、私は自分の病室があるフロアからほとんど出ない。喫茶室は初めてだった。
 窓際の席に座る。欲しいものを言えば、彼が取ってきてくれる。人に使役されることが嫌いなはずなのに、私のために自ら動く彼を見て、私はもうすぐ死ぬんだなと改めて思う。
「いつまでこうしていられるのかしら」
 ぽつりとこぼれた言葉。――私らしくなかった。「私」という人間は、すでに少しずつ、死んでいっているようだった。
「さあな。でもそれは、――どんな瞬間にだって言えることだろう」
 言われなくたってわかっていた。
 だからこそ、模範解答なんて必要じゃなかった。
 彼は私に、一度だって慰めを言わない。心配のそぶりも見せない。私と別れつつあることを、惜しんだりしない。――それは私の望んだこと。彼はきっと、私が死ぬ瞬間まで最高の理解者であり続ける。
 それを悲しいと思う瞬間があるのは、やはり私自身が失われているせいなのか。
「弓弦は、どうしてるの?」
 やって来ない想い人の名を出すと、ほんの少し馬鹿にしたように彼は笑う。
「相変わらず馬鹿やってるよ」
「あら。弓弦って、ちっとも学習能力がないのね」
「学習できるほど女寄せ付けてないんだよ。あれに期待するな。おまえに会いに来たりは、しない」
「・・・・・・」
 そんなこと聞いてないわ、とは言わなかった。
 聞いていないけれど、聞きたかったことだから。
「私は、」
 微笑を浮かべる。強がりと悟られないように。
「私は、弓弦のこと好きよ。だけど、傍にいるなら、あなたでいいの」
 彼は私のほうをまっすぐ見て、やがて目を伏せた。
 私は彼を失えない。彼は私の唯一の理解者であるから。そういう意味では、迷うことなく「愛している」と言える。逆もきっと、然りだ。
 けれど私は死に、彼は生き残る。
 彼は、私を失った世界でどうやって生きていくのだろうか。
 それを思うと、彼が不憫でしょうがない。
 逆の立場だったらと思うと、不安で仕方ないほどだ。
 べったりとした重たい沈黙を破ったのは、彼のほうからだった。
「俺個人の方針として、浮気と不倫はしないでおきたいんだけどな」
 冗談めかして、彼は言う。その軽さが、私にとっての救いになる。――ああ、どうして救いを求めるほどに私は弱くなってしまったんだろう。
「意外にあなた真面目よね」
「何人もの機嫌とってられるかよ。大事なものは、少しあればいい」
「浮気をしろとは言わないけど、それって淋しくないかしら?私は私に関わるもの全部、好きだといえるわよ」
 たどっていけば、世界のすべてを。
 彼が「へぇ」とおどけたしぐさをする。
「信じていないの?」
 怒ったように顔をしかめて見せると、ふいに彼は真面目になった。
「信じてるよ。昔から、知ってる」
「じゃあ、なんなのよ、さっきの」
「不思議なだけだよ・・・・・・迷いなくすべてを好きだって言いながら、なんで躊躇なくすべてを裏切れるのか」
「あなたはなんで、全部を疑問なく愛せないの?愛したら、裏切れないから?」
 そんな話、初めてだった。
 まじめすぎる会話なんて、気恥ずかしくて出来やしないはずなのに。それなのに口にするのは、終わりが近いから。こうして寂しさを埋めようとしていたんだと思う。
「・・・大切なものは、少しでいい。自分が守れる範囲だけが、俺の好きなものだ。沢山あっても、守れなかったら、意味がない」
「あなたの愛を背負う人は大変だわ。――加減しないと、相手を潰すことになるわよ」
「裏切りで相手を潰すよりマシだ」
「馬鹿ね。それってあなたにとって弱点よ。ほどほどにしなさい」
「わかってるさ。だけど、弱点を受け入れないと、何一つ手に入れられない」
「そうね。私もわかってるのよ」
 私は少しだけ笑った。
 表情筋を支配するなんて容易いことだったはずなのに、やけに難しかった。

 本当はわかっているのだ。
 求める答えが、どの道を選べば得られるのか。
 本当はわかっているのだ。
 どうすれば本当に欲しいものが手に入るのか。







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