01


 決して考えていないわけではない。ただ時に、考えることが、生きることが億劫になる。  ごく自然に自分の中に存在しているその思考。
 あるいは虚無という言葉が相応しいかもしれない。俺はあまり言葉を知らないから、本当に相応しいのかはよくわからないのだが。
 夜、布団にもぐりこんでから意味のないことを考える。そのとき、もし、という言葉をよく使う。ざわめきが胸の辺りに生まれて、なかなか眠れなくなる。しかし俺はよいのか悪いのか神経は太くできていて、やがて睡魔が訪れる。
 そうすると、翌朝がつらい。
 朝は、気だるさと表現するにはあまりに重たいものを俺にもたらした。
 いつのころか、それは毎日になって。
 不安定の代名詞である十代なんてもう終わりを告げたのに、まだあのころと同じところをぐるぐる回っている。いいや、回ってさえいない。うずくまったまま、動けない。顔を上げることが精一杯。
 いつまで。
 いつまでこれを抱えて生きていけばいいんだろうか。



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「私ね、尊(みこと)のこと大嫌いだったの」
 百家の薫子は、平然とそういうことを言ってのける人間だった。「誰かを嫌っている」なんていうマイナスの感情をどんと目の前に突き出されると、ぎょっとする。刺々しくも暗に言いまわす人間のほうがよほど扱いやすいと思う。
「死んでくれて、せいせいしたわ」
 すがすがしい顔と口調で言われると、ぎょっとするどころではない。この女には近づかないほうがいいと、心底思った。このろくでもない人間と、従弟は平気でつるむのだから、あれもろくでもない部類なのかもしれない。
「少なくとも私には、とてもくだらない人間にしか見えなかったの。――ねぇ現一。どうして尊の亡霊なんかにとりつかれてるのよ?例え尊がくだらない人間じゃなかったとして、あなたの親友だったとして。それでもあなたがあれのためにそういう生き方を選ぶのは間違いだわ」
 友好的な助言ではありえなかった。
 それでも、正しい。
 とても。
 だが俺はそれを受け入れて、亡霊を追い払えるほど強くはなかった。自分が消える選択をするほどにも、弱くなかった。
 結局、同じところにとどまり続けている。
 薫子が尊を徹底的にけなし続けてくれたのならば、もしかすると事態は変わっていたかもしれない。笑えるほどに情けないけれど、これも仮定なのだ。現実は残念ながら違う。
 あの時あの場所から、動けない。足がすくんだままなのだ。
 だから誰一人として守れない。いいや違う。手を伸ばしても救えなかった、あの感覚をもう一度味わう勇気がない。
 二年前だった。尊の名はすっかり語られなくなっていて、まだ薫が生きていて、跡継ぎを誰にするかで揉めに揉めていた、春日がとてつもなく生臭かった頃。
 俺はろくでもない薫子と平然と付き合ってられる従弟を――フジを頼った。あれもきっと、平気で気に入らない相手を切り捨てる人間だ。亡霊と成り果てた人の想いなど、鼻で笑って消し飛ばしてくれるだろう。
 あいつへ頭を下げることに、抵抗がなかったわけじゃないけれど。
 それでも。
 手を伸ばす勇気はない。知りながら見殺しにする勇気もない。
「取引だ。おまえの手駒になってやる。だから代わりに、」
 そう告げたときフジが見せた表情が意味するものは、いまだによくわからない。
 哀れむような、落胆するような。一方で、ほくそ笑んだ雰囲気さえあった。
 ただ、それを見て、「ああ、これはやっぱりろくでもない人間の仲間だ」と思って、安心した。頼った相手を間違えなかった、と。
「ずっと気になってたんだけどさ・・・キミがそこまで無理してフジに従うのは、誰のためなの?」
 そう問いかけてきたのは、真家の弓弦だった。
「尊のため?透のため?」
 答えを俺は知っていた。とっさに声にならなかっただけ。
 本音をさらして笑われる勇気もない俺は心の中だけで、それを告げるのだ。
 俺のためだ、と。
 それを言う代わりに、死者のために何かできるだろうかと問いかけた。
「何かしたら自分を満足させるくらいのことにはなるんじゃない?」
 人の心中を知ることなく、弓弦はそう答えた。
 人間嫌いを思わせるほどに人付き合いを煩わしがるやつなのに、言葉だけが宙に浮くようなことはなかった。



 尊は、弱い人間だった。今思えば、最初からそうだったのだろう。
 剣道は、互いに面白がって試合を重ねていくうちに強くなった。尊が属する三家特有の武器の扱いだって、二人で遊びながら会得した。
 世間とは明らかに異質の春日一族という存在の中で、規律を守ることをくどいほどに重ねて言われていたが、破るスリルを味わって楽しむ程度には健やかに育っていた。
 尊が俺と同じ感覚でいると思っていたのだ。
 だから気づかなかった。
 やがて尊が、一族という存在を背負いきれなくなっていったことに。
 百家の孜子に「勇者様」と揶揄されるほどにまっすぐなあいつが、矛盾だらけの世の中に絶望していたことに。
 あいつの部屋に、当然のように睡眠導入薬が、精神安定剤が転がるようになってさえ、俺はあいつの身をそれほど心配していなかった。
「正義と悪は、人の都合で反転する。――なぁ、現一。絶対のものがないのなら、俺たちは何を頼りに生きていけばいいんだろう」
 何馬鹿みたいなことを言っているんだ、と。俺はその時返した。
 いつものように、テレビゲームに興じて、漫画を読み散らかして、なんでもない会話をしていたはずだったから。
「おまえの言うこと、時々わけわかんねぇ」
「・・・薫子はすごいって思うんだ。どうしてあんなに、力強く生きれるんだろう。この世に絶対のものなんてないはずなのに、薫子は絶対なものを信じて作り上げるんだ」
「ますますわかんねぇ」
 応答が少し面倒になっていた俺に構わず、尊は続けた。
「薫子にとって、絶対って言うのは自分だろ。自分を基にして、絶対をどんどん増やしてる。どうして自分を絶対の存在にできるんだろう」
 尊のその口調に、憧れを感じ取った。
 憧れというのは、裏を返せば劣等感を意味する。当時はそんなことも知らない、ただの馬鹿な高校生だった。
「薫に惚れたかぁ?」
 俺は揶揄するように言ったのに、尊はやけに真面目に「そうかもしれない」と言う。こうなると下手なことは口にできなかった。
 あのろくでもない人間なんかに。いいや、それどころか赤い血が流れているのか、それすら怪しいのに。
「俺も、ああいう風になれるかな」
 なってくれるな、と心の底から懇願した俺の声は、尊には届かなかった。
 薫子は当時から、そんな尊をはっきりと嫌っていた。
「私はね、自分を持ってない人って大嫌い。あなたってその代名詞じゃない?近寄らないで、正直に言うけど、気持ち悪いの」
 わざわざ正直に言うけれど、と前置きしなくたって、薫子は全てにわたって正直だ。感情にも欲にも忠実だ。理性をどこかに置き忘れている。好き勝手にできるだけの能力を持っているから手に負えない。
 薫子はきっと、その後に起こることをわかっていたんじゃないだろうか。わかっていて、尊に自分の感情をこれでもかとストレートにぶつけた。
 ありったけの嫌悪を。侮蔑を。
 しかし俺は薫子に確かめないままだ。だから彼女を責めることも許すこともできないでいる。

 尊は殺された。
 尊自身の手で。






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