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10




「・・・本当は、二度と草原には戻らないと思っていたんだ」
 神殿の入り口に戻ってきたとき、彼は先を行く少女に告白した。
 霧は晴れ、草原は輝く姿を取り戻していた。もう、幻を見せる悪霊は近づいてこない。
「腹を空かせて、草原を駆け回るのは、もういやだった。冬が来るたびに腐りかけた芋を食べて、肉も大してついていない家畜を殺して」
「でも、戻ってきたのね」
「でも、俺はここへ還ることは出来ないんだ」
 すでに山の民ではなくなった。
 美しい草原も、風の歌も、山ノ神の神殿も、一度はすべて忘れた。
 いつからだろう。平地の暮らしに慣れたのは。草原の歌を聴くことが出来なくなったのは。傍らの「何か」に怯えるようになったのは。
「還ることが出来ないのに、何のために来たんだろう」
 泣き崩れそうなのを必死で堪えて、それを口に出す。
 宴の地を忘れなかった友は、山の民としてここに眠った。
 だが、自分は?
「あなたも、ここで眠るのよ」
 少女がすっと手を伸ばしてきた。――彼の両目へと。とたんに、涙が溢れ出した。一度流れだしたものはとめることが出来ず、彼は声を上げて泣いた。声を出して泣いたのは、何年ぶりかわからない。
 草原を囲む山々が、彼の声をいくつもいつも反響させた。まるで山が泣いているようだった。
 彼が泣き止んでも、山だけずっと泣き続けていた。
 涙を拭く。ゆっくりと、少女へと視線を向ける。そして。
「・・・俺は、ここへ還ることができるのか」
 泣き疲れ、かすれた声で問う。
「ええ。いつか、必ず」
 風の娘の少女は、うなずいた。
 やがて草原は静けさを取り戻した。――少なくとも普通の人間の耳で聞くには、静かだった。
 あふれる風の歌を除くのならば。
「――帰ろう。村まで送る」
 少女が微笑んだ。
「ええ、ありがとう」





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