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09




 闇が問いかける。
「赦されるのか」
 耳の奥で、囁くのだ。何度も何度も。
「救われるのか」
 何度も。
 「何に」赦されるのか、「何から」救われるのか、そんなものはわからない。ただ恐怖がある。彼らはそこかしこに居場所を持っている。あるいは、隣に立っている。
 影のように付きまとうそれに気づいたのは、平地での生活が十年になろうとするころだった。それが存在するだけで、すべての場所で色が失せ、風景にはすべて恐怖が写りこむ。
 いつでも傍らにいるそれ。――闇ととても近いものなのかもしれない。触れられない、形に出来ない、言い表せない、けれどどこにでもいるもの。
 闇はやはり問いかけを続ける。
「どこへ行く」
 ぬるり、と耳の奥へ闇が入り込む。
「なぜここに帰る」
「帰りたい者は多くいた」
「宴の地を望むものは多くいた」
「知っていた?」
 耳をふさいでも、奥に入り込んだ闇が、囁き続ける。
 そんな、頭を抱えてうずくまる彼の手をやさしく取ったのは一体誰だったのか。気づいたときには、誰かに手を引かれて闇の中を歩いていた。
 誰、と問いかけても答えは返ってこない。ただ、くすくすと笑うような、明るい気配だけがしていた。
 やがて、行く手に光が見えた。はるか上から、一筋の光が差し込んでいる。
 そのとき、歌が聞こえてきた。――風の娘の少女の声だ。
 少女が朗々と山ノ神へ捧げる歌を歌う。歌劇場のように辺りの岩が少女の声を響かせた。――恐ろしく美しい、音の重なり。
 光が届くところにたどり着いたとき、彼はその光景を見た。
 光が一番強く差す場所に立ち、細い体をめいっぱい使って歌う、風の娘。風が彼女を取り巻き、差した光が煌く。
 ――静かに歌が終わる。
 彼ははっとわれに返って、傍らを見た。だが、手を引いていたはずの何かは、どこにもいなかった。
 少女へ視線を戻すと、少女は彼に気づいていた。
「・・・どうしてここへ?・・・あなた・・・風が、案内してくれたのね」
「風?」
「風が許したのなら、山ノ神もお怒りにならないわ」
 少女が招くので、その傍らに立つ。
 少女は無言で、彼女の正面を示した。――五歩先は、闇が口をあけていた。ここから下は、道がない。断崖になっているのだ。
「見えるかしら」
「いや・・・君には、見えるの?」
「ええ」
 驚いたことに、少女はうなずいた。
「本当はいろんなものが見えているの。私の目に映らないだけ。風がすべて教えてくれている。――草原の美しさも、あなたの姿も、この先の風景も。――けれど、これは本当の世界なのかしら。私が見ているのは、なんなのかしら」
 首をかしげる少女の目は、悲しげな表情を浮かべていた。
「何が、見えるの」
「もうすぐ、あなたにも見えるって、風が言ってるわ」
 どれだけ待ったことだろう。ゆっくりと日の傾きが変わり、崖下の闇を追い払う。
 思っていたほど深くはなかった。落ちたら無事ではいられないだろうが。
 底には、たくさんのものが積み重なっていた。――それは、白く、歪なもの。
 彼は、目を閉じて息を吐き出した。
 首を左右に振って、その場に座り込む。
(知っていた)
(ちがう、思い出した)
 再び目を開く。先ほどよりも明るくなった崖下をもう一度見て。
「・・・彼らは、眠ったのか」
「ええ、ちゃんと安らかに」
 少女が静かにうなずいた。

 とうの昔に忘れていた。――忘れてしまったから、彼は山の民ではなかったのだ。
 崖下に広がる、――一面に散らばる骨。
 山ノ神の御許。ここが、山の民の眠る場所。




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