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08
神殿の前の石に腰掛けた。
この石も、歌を刻んでいるのだろうか。風は相変わらず鳴き続けている。
ここを立ち去っても良かった。風の娘は盲目だが、一人でなんだってこなす。火を熾せないとは言っていたが、谷に下りるまでかかる時間はたったの二日。それほどの不便はないはずだ。
だが彼が腰を上げることはなかった。
吹き付ける風は、影を通るせいなのか冷たい。やがてそれに、湿気が混じりはじめる。――霧だ。
ゆるゆると立ち込め、徐々に景色を白に染め上げてゆく。風の流れが緩やかになり、霧をその場に留める。
彼は息を吐き出した。
草原を離れて、同時にそこに満ちていた迷信や因習からも離れた。それでも霧のなかに何かが潜んでいるのではないかと、頭の片隅で警鐘が鳴る。
頬に霧が触れる。ひんやりとした手で撫でられているような感触だ。
吸い込む空気は冷たいが、やわらかい。
じっとりと、服が重くなる。
神殿の中に身を寄せようと、腰を上げる。だが、足が動かなかった。
「・・・?」
冷たいものが、足に触れている。濡れた衣服が張り付いていたのかと思っていた。だが違った。
霧でかすんだ足元に、男が倒れている。その男が、彼の足を掴んでいた。
ぎょっとして足を引くと、図らずも男を蹴ってしまう。だがそれにかまう余裕もなく跳んで下がった。男の姿は、霧に埋もれた。
霧の向こうを、凝視する。――否、目が離せなかった。
体温が下がる。その様が、恐ろしく鮮やかに感じられる。
こんな貧しい高地に、宴の地の終端に、自分たち以外の人間がどうしているのだ。いいや違う、あの顔を知っている。知っていた顔。
一歩下がる。震える足は、石につっかえて、バランスを崩す。地面に手をついた瞬間、また「何か」に霧中に引き込まれるのではないかという恐怖が広がって、声に鳴らない悲鳴を上げて神殿の中へと駆け込んだ。
誰だ。なぜここにいる。――知っている?いいや、知らない。
がんがんと胸を叩く心臓を落ち着かせようと、上から服を強く握る。
とん、と誰かの手が彼の肩に触れた。ぎょっとして振り払うように振り向く。
入り口からわずかに差す光は、風の娘の少女を照らしていた。
「どうしたの?」
少女がこちらを見て首をかしげる。
体の中心から、どっと安堵が広がった。
――きっと、悪霊の仕業だ。霧に隠れて近づいて、幻を見せた。
そう言おうとして、顔を上げる。その瞬間、少女と目が合った。
言いようのない違和感は、瞬時に恐怖にすり替わる。――盲目の少女と、視線が交わるはずがない。
「誰・・・」
後ずさりながら、声を絞り出した。
少女が――少女の姿をした何かが、にぃっと笑う。彼から視線をはずさぬまま。光をその瞳に映して。
「どうしたの?」
少女の姿をした何かが、同じ質問を繰り返す。
「誰だ」
「あなたは?」
「俺は、」
「あなたは、なぜ帰って来たの?」
「・・・友を、連れてきた。安らかに、彼らが眠れるように」
「なぜ?」
「なぜ・・・?」
「なぜ帰って来たの?ここに、あなたが眠る場所なんてないのに」
何かが笑う。少女の顔で、少女が見せたことのない人を嘲る表情で。
「ない・・・?」
「ないわ」
それは言い切った。そして、まともに息も出来ない彼の目の前で、その形を崩した。――あたりにぼうっと霧が広がった。
たっぷり十数秒の間を置いて、彼は息の仕方を思い出した。荒い呼吸をくりかえし、噴出した嫌な汗をぬぐう。
霧はまだそこにとどまっていて、ゆらゆらと揺れる。
彼はそれを睨みつけながら、じりじりと後ろへさがる。背中が闇に触れる。霧とは違う、冷たくやわらかい感触だった。
霧が再び何かに形を変える気配はなかった。
だがそこで糸が切れたように限界が来た。
彼は悲鳴にさえならない、息の切れた声を上げて、闇の待ち構える神殿の奥へと身を投げた。