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07




 日の出とともに起きだして、草原を黙々と歩く。
 本来ならば、今日は帰路をたどっているはずだった。食料は予備を持っていたが余裕があるとは言いがたい。
 時折、大地に建てられた目印に出会う。人の身長より少し高い木で、白く長い布が結わえてある。風にはためくそれは、神域が近い印。
 宴の地すべてが神域とされているが、草原の奥地――入り組んだ山の間にある山ノ神の神殿周辺が特に神聖な場所だと言われる。普通神域と言うと、これを指す。
 争いを厭う、神聖な場所。神域近くで、家畜を殺してはいけない。血を流してはいけない。祭礼用以外の武器を持ち込んではいけない。
 神域に入っても、風は相変わらずさまざまな歌を歌い続けていた。耳が慣れたのか、とぎれとぎれに聴こえてくる。
 歌が大きく聴こえるときは、たいてい岩や、大きめの石がある。
 神殿が近づくにつれ、緑の草原に横たわる石や岩が増える。細い山間の土地に吹く風は冷たく鋭さを増し、歌が溢れていった。
「なぜ石や岩は、歌を創るんだろう」
 湧いた疑問を口に出す。答えるのは、風の娘。
「孤独だから。どこへでも行ける風と違ってとてもさみしいの。だから、風の興味を引くために、歌を創ったの」
 そして、と少女は続ける。
「人はそれを真似ただけ。真似て、神の気を引くの」
「意外に、厳しいことを言う」
「魂をも癒す歌を、人は創れないわ。だから、岩と風と山ノ神に感謝しなければならないの。それなのに・・・」
 言葉は続かなかった。
 けれど、少女の言いたいことはわかる。――人は草原を捨て、忘れる。それなのに、一度は捨てたはずのここへ傷ついて還って来る。
「君は、それでも歌い続けるのか」
「・・・ええ」
「どうして、君が歌うんだ」
 神聖な存在である風の娘が、戦など知らなくていいと、そんな血なまぐさい魂に触れなくてもいいと、彼は言う。
 少女は微笑んだ。歌うことを、誇るように。
「人々はいつか、風歌う草原へと還るの。そのとき、誰かが歌で導き、歌で迎えなければならない。それができるのは、私しかいないの。そのための、風の娘だから」
 そして、目を伏せる。
「けれど――、私が死んだとき、私のために歌う人はいない」
 彼は返す言葉を探し出せない。
 そんな彼を見放すかのように、一行の行く先は山の影に入った。昼間もほとんど日の入らないらしいそこは、精彩を欠いた草が、短くへばりつくように生えている。岩には苔がはえ、風の鳴くほうへ目をやれば、谷が口を空けていた。もうここは、宴の地の終端なのだ。
 そしてその終端には、山ノ神の神殿がある。
 影と影の合間だった。――周囲からはすこしだけ盛り上がった場所、そこだけに光が差していた。
 石とほんの少しの木で組まれた門は、粗末だった。たどり着いた感動すら沸かない。
 建物らしいものはない。門以外は、山脈の割れ目を利用した神殿だからだ。
 割れ目は山の奥深くまで続いているというが、一般の巡礼者は立ち入ることができない。
「山ノ神への挨拶は、覚えてる?」
 少女が尋ねるので、うなずいた。盲目であるはずなのだが、声に出さない返事でもちゃんと理解する。
 門をくぐり、ひやりとする神殿の内部へ足を踏み入れる。
 内部に光はなかった。入り口から数歩先は、もう闇に包まれている。持っていたランタンに火を入れ、中を照らすと、祭壇が見えた。
 祭壇にあるのは、供物をささげる段と、両脇にろうそくの溶けた跡。飾りの一つもないそれは、記憶よりもずっと小さく粗末だった。――昔は、ここに供物がたくさん捧げられていた。一般の巡礼者はここで山ノ神に祈り、去るのだ。そして奥へ下ることが許された者たちが、供物を山ノ神の近くまで運ぶ。
 彼は香草に包んだヤギの肉と、酒をそこに置いた。
 手を胸の前で組み、膝を地面につけて、頭を軽く下げ、目を閉じる。
 祈りの言葉を、口にする。
 十年以上忘れていたそれは、すんなりと喉を振るわせた。
 それと同時に、言いようのない虚無感が襲ってきた。
 これですべてが終わった。やるべきことは、もうない。
 なのに、抱えてきた想いも傷も、何一つ変わらない。変わった実感が湧かない。
 ――なんのために来たのだろう。
 その場に崩れ落ちそうになる。どうにかふんばって、立ち上がる。
「私はまだ行かなければならないから」
 少女がそう告げて、彼に背を向ける。
 闇に消える少女を見届けて、今度こそ彼は、その場に崩れ落ちた。




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