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06
「知っているのか」
山間に、早い夕暮れが迫っていた。山脈に囲まれたここは、あっという間に山の影に入り、赤い空を見るより先に暗がりがあちらこちらに生まれる。
彼は岩に背を預けたときと同じ体勢でいた。顔を上げることができない。きっと、酷い顔をしている。谷へと帰ってきたあの日と同じような。
少女の声が、降ってくる。彼の質問に対する、答えだった。
「私は、知らない」
「岩は?風は?――なんで、・・・知っているんだ」
「風は、この世界のどこでだって吹いているから、何でも知ってる。岩はいつだって、風の話し声を聞いている。だから」
「ここで、歌うべきものじゃない」
彼はかすれる声で言った。
ここは、険しい山脈の合間に現れた、神々が宴を開いた地だ。美しき草原は人の生きる糧となると同時に、神の領域である。穢れなき土地なのだ。
「何を聴いたの?」
少女が問いかける。彼は首を横に振る。
「わからない。ただ、・・・歌われているものがわかった」
「そう」
「なぜ草原の岩が、平地の戦を歌うんだ」
「・・・・・・」
「あんな美しさのかけらもない場所のことを、なぜ美しい草原にある岩が歌わなければならないんだ。ここは、・・・」
透明で繊細で切れそうなほど鋭くて、無駄なものが一切ない、それが草原だ。足をくすぐる草も、顔を覗ける歌を刻んだ石も、あたりを囲む山並みも、吹き渡る風も、すべてが心に訴えかけてくる。――ここが還る場所だと。
ここに、それ以外の物が入るべきではない。
よりにもよって、平地の歌など。
「・・・私は、平地のことを何も知らないの。みんなが出稼ぎに行くところ。人によっては、谷を離れてしまう。それくらいしか、わからない。――ねぇ、どんなところ?」
「風の娘が知ることじゃない。ここで語ることじゃない」
「でも・・・、何があったか知りたいの。だって、岩は慰めてるの。還って来た人たちが、安らかに眠れるようにって」
「そんなこと、しなくていい。ここは、穢れを知らないでいるべき場所なんだ」
「還って来た人たちを追い返したいの?」
少女の声音が、すこしこわばる。怒っているらしい。
けれど彼は、取り繕ったりしない。
「穢すくらいなら、還らなければいい。――平地で死んだのなら、平地で眠ればいい!」
「平地はもう血で満ちているから、眠れないの。だからここが必要なの。壊れかけた魂を、歌が癒すの。そして山ノ神の一部となって眠るのよ」
「じゃあ俺がここに来た意味なんてない」
「なぜ・・・」
彼はためらった。
少女はそれを急かしたりせず、黙って待っていた。
「――誰も知らぬうちに、ここを穢さぬように、彼らを眠らせるために来たのに」
吐き出した言葉が、火傷しそうなほど熱かった。
再び溢れてきた涙をぬぐう。
冷えた夜の風が、体温を奪う。震える体とは裏腹に、胸と喉が熱を持つ。
「みんな、谷の人間だった。貧しくて、兄弟が多くて、だから出稼ぎにでるしかなくて」
「ええ」
「何も知らない。・・・争う意味なんて、知らなかった。誰と争っていたのかも。平地は俺たちの国じゃない。だけど、武器を持たされた」
「・・・あなたは、どうして一人で帰ってきたの?」
「終わってみたら、みんな死んでいた。生きているのは、谷も草原も忘れ去っているやつらだ。あんな貧しい場所には二度と戻らないと言って」
ここは貧しい。家畜は太らない。乳もろくに出さない。斜面ばかりでまともな畑は作れない。夏が短く寒いこの土地では、ほとんどの作物が枯れる。
だが平地は豊かだ。冬に飢える者などいない。余るほどに豊かなのに。
少女は無言のまま彼の手をとった。
彼はゆっくりと顔を上げる。濡れた頬を、風が撫でていく。
少女が、すうっと息を吸う。そして、歌いだす。
言葉はほとんどが風のもので、人には聞き取れない。それでも、わかる。――この岩が刻んだ、鎮魂歌だと。
風がそれを追走する。
やがて少女が歌うのをやめても、後から後からやってくる風が、追走を繰り返した。
草原が、歌で満ちていた。
「大丈夫。あなたの友の魂が安らかに眠れるよう、私が歌うから」
少女が微笑む。