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05
霧が晴れた草原に、岩のオブジェが現れた。
「あら、岩だわ。さっきから風が歌っていたのは、この岩の刻んだ歌なのね」
少女がうれしそうに言い、濡れた草の上を走っていく。もうすでに、彼女のことを、盲目を理由に心配することはなかった。
湿った岩肌は、ここから見える山脈と同じ色をしている。風で削られ角が取れ、岩ではあるがやわらかい印象があった。近づいてみると、それが彼の身長より高いことがわかる。歪な涙型、と言えなくもない。初めに目に入った角度ではわからなかったが、意外と平たい。
少女が岩に手を触れた。――ちょうどそこに、大人のこぶしくらいの穴が開いていた。まるで窓だ。
「少し寄り道になるけど、いい?この岩の新しい歌を、聴きたいの」
「新しい歌?」
「そう。石は常に歌を創ってる。何年もかけて、ものによっては何十年も何百年もかけて創るの。それを風が歌うの」
少女は目を閉じて、幾度も深い呼吸を繰り返す。〈風の娘〉が、〈歌い手〉が歌を得るその瞬間は、とても幸せそうに見えた。
彼は岩の根元に腰を下ろし、岩に背を預けた。
風が岩にぶつかって、ひゅうっと音を立てる。もしかすると、これも風が歌う歌の一端なのかもしれない。
風の歌を正確に聞き取ることができるのは〈歌い手〉だけだ。だが普通の人間にだって、それが聴こえる瞬間がある。――幼いころは聞いていた。草原を渡る風の歌を。
今、聴こえるだろうか。
そんな思いを持って、目を閉じて、全身の力を抜く。
風が耳をくすぐった。
さらさらと草を滑る、風の音。
そして、途切れ途切れに聴こえる、――音の連なり。
――・・・帰還せよ、風歌う宴の地へ
彼ははっとして、目を開いた。だが、視界は曇っていた。
落ち着けたはずの体は、こわばっている。心臓ががんがんと、痛いほどに響く。曇った目を、手のひらでぬぐう。
おそるおそる体をひねって、岩を見上げた。
――岩の傍らで、〈風の娘〉が歌っていた。風とともに、ガラスを鳴らすような澄んだ音で。
――御帰り。
――そしておやすみ。
――山ノ御許で安らかに。
体の末端から、一気に冷えた。眩暈がする。頭の中が、揺れているようだった。
やめろ、と呟いた。誰一人として、それを聞き届けるものはいない。
知っているのか。
岩は、風は、――知っているのか。
だが。
絶望的な問いかけは、声にならない。
彼はゆっくりと、地面に視線を落とす。両の手のひらを、目に押し付けた。
草原に響くそれは、鎮魂歌。