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04
太陽が天頂に届く前に、宴の地は雲の中に入った。――高地では珍しくない、酷ければ足元も見えないほどに立ち込める霧だ。
見えるすべてが真っ白にぼやけ、染められ、山の影すら見えなくなった。
霧は、この地で畏れの対象だ。霧は精霊や悪霊が纏うヴェールであると言う。霧で人から身を隠し、遊んだり、悪さをしたりする。精霊も悪霊も本来は同じものだ。人にとって不可侵の領域。それが人に災いをもたらすときにだけ、悪霊と名を変える。
岩陰を見つけて休もうと提案する彼に、少女は笑って首を横に振った。
「大丈夫よ、迷ったりしないわ」
少女は彼の手をとって進み始めた。
霧の中では、視力がまったく役に立たない。放牧中に霧に遭ったときは、その場から動かないように教えられていた。
盲目の少女は、端から視力に頼っていない。彼には聞くことの出来ない風の導きにしたがって、危なげなく歩く。
盲目の少女に手を引かれてゆく。――奇妙な心地だった。その心の一端を言葉に表すならば、「恐ろしい」。見えないことは、視覚に頼る者にとって不安をかきたてる。少女の本性は悪霊で、霧の中に自分を置き去りにするのではないかとさえ思った。
その怯えを手から感じ取ったのか、風が少女に知らせたのか。霧の中で少女が苦笑する気配が伝わってくる。
「大丈夫。風が案内してくれるの。風が私の目なの」
「・・・ああ」
「ほら、風が笑ってるわ。怯えないで、って」
風の娘はまるで風と言葉を交わしているかのように言う。
「――風は、どんな声をしているの?」
ほんの少しだけ前を行く、手をつないだ少女の姿すらまともに見えないほど、霧は濃かった。
触れる空気は肌に張り付くようで、ひんやりと冷たい。衣服がだんだんと重くなり、気づけばぐっしょりと湿っていた。
肌に張り付いた水滴が、ゆっくりと体温を奪っていく。立ち止まれば震えることになるが、歩いていれば暖かかった。
少女の声は、霧の中から聞こえてくる。
「優しい声。いつだって歌ってる。空のはるか高いところでも、私たちの耳元でも。――あなたにも、聴こえているはずなの」
「・・・だけど、俺には聴こえない」
「草原にいれば、聴こえるようになるわ」
「でも俺は、巡礼が終わったら、平地に帰らなきゃならない」
「それは違う。――還るところは、ここよ」
少女が立ち止まって、彼を振り返った。
時を同じくして、風が吹き、霧を押し流していく。
「人々はいつか必ず、風歌う草原へと還るわ」
霧が流れる様は、水のように鮮やかだった。
風上から景色が晴れていく。
短い夏にしか訪れることの出来ない、神々と精霊の土地――草原がまぶしいほどの色を持って現れる。
「山ノ神の御許へ。精霊の戯れる宴の地へ」
草原に日が差した。
霧で濡れた草が、光を浴びて鮮やかさを増す。きらきらと光る。
かつて、神々と精霊が宴を開いた。そして生まれたのが、険しい山脈の合間に生まれた、美しい土地。――宴の地。風歌う草原。
風が少女のもとへと集う。彼の耳元にも、くすぐったい感触がある。――風が、撫でていく。
「そうでしょう?」
少女が微笑んだとき、霧はすでに風に運ばれて姿を消していた。
「・・・・・・そうだな」
彼はうなずいた。