--*--
03
宴の地は緩やかな起伏を繰り返す。
山間のそこに朝日が差すのは遅く、山の陰に入ると風が吹くだけで震えるほど寒い。それが夏の草原だった。
盲目の〈風の娘〉は彼の手を借りることなく、まるで見えていえるかのように迷うことなく歩く。石があれば避け、できるだけ日なたを通った。彼は道をよく知らないから、逆に彼女について行く形になる。
――昨晩岩に預けた剣は、朝にはその様相を変えていた。真新しさが消え、何年も仕舞い込まれていた物のようになっていた。武器が秘める鋭さ、猛々しさが、たった一晩で消え去っていた。今は鞘に大人しく収まり、彼の腰にぶら下がっている。
剣にその変貌をもたらした少女は、時折、歌を口ずさんだ。高地で歩きながら力いっぱい歌うことは、彼女でも出来ない。だが類稀なる〈歌い手〉の素質を垣間見るにはそれだけで充分だった。
褒めると、少女は困ったように笑う。
「当然なの。私は風の娘だから」
山ノ神の祝福を受け、風に愛された者。――風の娘は、そうなのだと言われていた。
彼がまだ谷に住んでいたころ、草原を駆けていたころにも、どこかの村に〈風の娘〉がいた。放牧のときに家畜に山ノ神の加護を祈るために、〈風の娘〉が来たことがある。それは、腰が曲がった老婆だった。
しわくちゃの顔で彼に笑いかけ、老婆とは思えない力強い声で歌った。
〈風の娘〉は谷に同時に二人以上存在することはないという。百年もの間〈風の娘〉がいない時期もあったという。
神話にさえ登場するその名だったが、幼いころから、単なる形式的な地位だと思っていた。優れた〈歌い手〉に与えられるものでしかないと、そう思っていた。
だが。
「私は生まれた時から、風の娘よ」
少女はそう言った。
わからなくなる。――この草原は、ただの因習に囚われた土地だと思っていたのに。
ただの迷信でしかないのか。それともやはり今までの知識が間違いなのか。
しかし生れ落ちてすぐのこどもが、どうして優れた歌い手になれるとわかるのだろうか、――理解できない。
彼は、かつて出会った〈風の娘〉の老婆の生れ落ちた瞬間を、想像しようとしたが、うまくいかなかった。
「前の風の娘に会ったことがある」
そう告げると、少女は目を伏せた。
「私が生まれる前のことね。――だけど話はいくらでも聞けたわ。隣の村の人だったから。私よりずっと優れた人だった、って」
「優れた人って、風の娘に何か役割があるの?」
「定められた役割は、山ノ神への巡礼だけだけれど・・・。でもあの人は、雪や雨を望むことも、晴れを望むこともできたと、あの人が山ノ神の加護を願った家畜は、病気知らずで良く子を産んだと、そう聞いているわ」
「君には出来ないの?」
「ええ」
悲しそうに少女はうなずく。
悲しむ理由が、彼にはわからなかった。
だいたいそんな超常の力が、あるとは思えない。ただの天気を読む力に優れていただけではないのか。ただ偶然だったのではないのか。
だが、根拠もない力にすがらなければならないほど、草原は貧しい。山ノ神の加護を乞わなければ生きてゆけない。
平地はそんなものに頼らなくても、豊かだった。
小さな工場で、一日中同じことを繰り返しているだけの人間だって、食べ物に困ることはない。谷で、草原では大事に食べていた肉を、平地の人間は簡単に捨てる。肉をもたらす家畜といえば、狭い小屋にぎゅうぎゅうに詰め込まれて太らされている。それは、あばらの浮いたヤギが草原を伸びやかに走る姿を知る彼の目に、とても醜く映った。
平地は、草原の美しさの一欠けらだって持ち合わせていない。けれども人は、草原を去りつつある。――平地のほうが、豊かだから。
「別に、そんな力なくてもいいだろう」
「そうかしら」
「草原は、もう忘れられている」
少女は一瞬表情を失った。
光を通さない目が、彼のほうを見ている。――目が合うはずもない。だが彼は、目を逸らした。
「・・・・・・・そうね」
やがてうなずいた少女の声に、力はなかった。