--*--
02
草原に小さな火がともる。――草原の枯れ草や、枯れた潅木を集めた焚き火だった。
火のそばでパンを温める。沸かした湯に香草を入れたものを器に注ぎ、隣に座る少女に手渡す。
――少女は自分のことを〈風の娘〉だと言った。風の娘は、神話にも語られる存在。山ノ神に仕える者であり、風の歌を聴くことが出来る〈歌い手〉でもある。
石や岩が歌を刻み、風がそれを歌う。〈歌い手〉は風の歌を聴き、己の声で再現して山ノ神にささげるのだ。
「うれしいわ。私一人では火を熾せないから。――昔のようにほかに巡礼者もいないし、あきらめていたの」
微笑む少女の双眸が奇妙なことに気づくのは、パンを手渡したとき。少女は手元を見ることなくパンを受け取った。――怪訝に思って覗き込んだ、小さな焚き火の明かりを受ける瞳は、光を通していなかった。
「・・・目は、どのくらい見えているの?」
ためらいがちに問いかけると、少女は首をかしげて困ったように笑う。
「たぶん、何も。緑の草原も、星の輝きも、あなたの姿も、何一つわからないわ」
彼は驚いて、声を失う。――冗談かと思った。
「風が教えてくれるの。だから道を迷うことはないし、何かにつまずくこともない。だけど風は火を嫌うから火を熾すことはできないのよ」
こともなげに、少女はそう説明した。
〈風の娘〉――風に、神に愛された者ならば、そんなこともできるのかもしれない。
そう考えて、彼は苦笑する。
なぜこんなに、非科学的なことを信じられるのだろう。
草原を離れ、谷底の村を後にし、十余年が経つのだ。平地の国で文明を見た。科学を見た。あそこでは、厳しい草原で痩せたヤギを追わなくても、ここよりずっと豊かに暮らせた。
それを知ってなぜ今更、草原の迷信めいた伝説を信じようとするのだ。
「・・・なぜ目が見えないのにたった一人で?風が教えてくれても、火を熾せないんじゃ不便だ」
「風の娘が巡礼に出るときは、同じ村から巡礼者を出さない決まりよ。谷の人なのに、知らないの?」
「・・・ずいぶん前に、谷を離れたんだ。そんな習わし、すっかり忘れていた」
「でも巡礼のこと、覚えていたのね」
「・・・そう、だな」
正直なところ、忘れていた。平地から、身を引きずるようにして谷底の実家へと戻り、長い間部屋に閉じこもった。そこで耳にした巡礼の儀式。――幼いころに、総出で巡礼者を送り出した風景を思い出したのだ。聞いたところ、彼の住む村ではもう十年以上、巡礼者を出していなかった。
谷でさえ、すでに美しく厳しい草原を忘れつつある。
「君の村は、まだ山の民なの?」
「さあ・・・。そう呼べるかどうかはわからないわ。放牧に行くのは、もう二家族しかいないもの。あとはみんな、出稼ぎ」
「でも、風の娘がいるくらいだから、まだ山ノ神の加護のもとにあるんだろう」
「どうかしら。私は草原を離れては生きていけないけれど、他のみんなはそうじゃないから」
悲しげに目を伏せた少女に、二杯目の湯を渡す。少女はやはり目で確かめることなく器を受け取った。声をかけずにただ差し出したそれに気づくのは、やはり彼女が言うように風が知らせるせいなのか。
「あなたの村に、〈御使い〉はいなかったの?」
少女が小さく首をかしげて、そんなことを言った。彼は質問の意味がわからなくて、問い返す。
「みつかい?」
「山ノ神に仕える人」
「・・・ああ、何年か前に死んだ老人が、最後だって」
そう教えてくれたのは、村の鍛冶屋だった。巡礼に必要な、祭礼用の剣を一振り打ってくれと頼んだときに聞いた。本当は、鍛冶屋はもうない。三年も前に引退した老人が、鍛冶場の隣にまだ住んでいるだけだ。
剣が欲しいと言っても首を縦に振らなかった。巡礼に出たいのだと話すと、無言で腰を上げた。商売にしないだけで時々は使っているらしい鍛冶場に入ると、老人はさらに無口になった。老いた見た目とは裏腹に、鎚を振り下ろすその様は力強かった。
「この村に、もう〈御使い〉はおらん」
打ち終わった剣を研ぎながら、老人は短く言った。
「巡礼に出るには、〈御使い〉の導きがいる」
深くは考えなかった。
巡礼の剣と、山ノ神への供物があれば巡礼には行けると思ったから。うろ覚えの記憶をたどり、わからないところは年寄りたちに尋ねて、村を発った。
少女は彼に断ってから、彼の腰の剣へと手を伸ばした。
「祝福がない武器は、神の領域に持って入ってはだめなの」
「・・・・・・祝福?」
「〈御使い〉が、これを武器ではなく神器と認めるの。〈御使い〉がいなければ、巡礼を導いてもらえない」
「祝福がないと、わかるの?」
「わかるわ。風がこれを嫌っているから」
少女が言うとおりに、剣を腰からはずして渡す。
「火のお礼ね」
少女はそう言って、剣を鞘から抜いた。鞘をその場に放り出し、抜き身の剣だけ持ってどこかへと歩いていく。
彼はあわててその後を追った。
「どこへ行くの?」
「近くに祝福の岩があるの。私は〈御使い〉ではないから、直接祝福することが出来ない。だから、岩に頼むの。岩に、これは武器ではなく神器であると風や精霊に説明してもらうの」
「岩?岩が祝福を?」
「祝福の歌を知っている岩なのよ」
少女は歩きながら言う。
彼女の言う岩はすでに見えていた。それほど遠くない。――ここからでも焚き火が見える。
岩は彼の腰ほどの高さで、半分土に埋まっていた。大きくはない。
少女は岩の前の地面に、抜き身の剣をつき立てた。
「・・・歌が、聞こえる?この岩が刻んだ歌が、辺りに満ちてるわ」
少女の問いかけに、彼は首を振る。
「いいや、俺にはもう、山ノ神の加護なんてないから」
「昔は聴こえたの?」
「聴いていた気がする。よく覚えていない。草原に、――宴の地に最後に来たのは、六歳のときだった。それからすぐ、平地へと出た」
「そう」
どちらからともなく、焚き火へときびすを返す。
風がまとわりつくように吹く。おそらく風に愛された少女に、風が擦り寄っていくのだろう。こんな感触、今まで知らなかった。
「明日には、神域に持ち込んでいい剣になっているわ。大丈夫よ、あれだけ歌が溢れているんだもの、一晩で充分よ。だから、今日はもう休みましょう」
少女が微笑んで言う。
彼には何も聴こえない。――夜の静けさ。風が草を撫ぜる音。服のこすれる音。草を踏む音。――何一つ、歌には聴こえない。
少女が――盲目の〈風の娘〉感じている世界は、一体どんなものなのだろうか。