人々はいつか、風歌う草原へと還る。
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01
空気は薄い。背の低い草が地面を覆い、所々ごつごつとした岩が顔を出している。時折見かける木は、空へ枝葉を伸ばすことをあきらめていた。
雪をいただく峻嶺から吹き降ろす風は、夏でも肌寒い。夜だから、なおさら冷え込む。
見上げれば平地の街では見たことのない、きらめく星空が広がる。月が満ちつつある今、山の影に入らなければ、明かりがいらないほどに明るかった。
一歩一歩、足を進めていく。緩やかなのぼりだが、高地に慣れない者なら息が切れる。――彼自身がそうだった。幼い頃には夏の放牧についていったものだが、草原から離れてすでに十余年が経っている。
風歌う草原。――険しい山々の間に現れるこの草地を、人は宴の地と呼ぶ。神や精霊たちが集まり、宴を開いた土地だと。
村にはそんな物語と歌があふれていた。〈語り部〉が常にこどもに向かって何かを語る。〈歌い手〉が、石や岩の刻んだ時を澄んだ声で歌う。〈精霊視〉の老人が、天候や災害を予言する―――・・・。
改めて思い返せば、なんとばからしい、非科学な村だったのだろうと思う。
けれどもそれをまだ信じようとしているのも確かだった。
いつまでも草を踏む音と、衣服がこすれる音ばかりが続く。
草原を取り巻く空気は、水底の砂のように、かすかな動きはあれど、重く沈みこんだ静けさだった。
体の中の何かが、声をぐっと潜めてうごめく。――この静けさの中で、美しい夏の思い出だけを思い返すのは無理だった。静けさゆえに、耳の奥にこびりついた音が大きく鳴り出す。それは耳鳴りのように意思とは関係なく、現実の音かと紛うほどに鮮明に響いた。
――音の嵐。
思わず目を閉じれば、映像や感触までよみがえる―――・・・。
がくん、と足の力が抜けて、地にひざを着く。
噴出した汗に濡れた肌を冷たい風が撫でてゆき、ぞくりと寒さが背を伝う。
吐息が震えていた。同時に、耳鳴りはやんでいた。
ふとそれに気づいたのは、風向きが変わった瞬間だった。
聞こえたのは、歌声。
夜は精霊が月の光を纏うて、人の真似事をする。
彼らを見た人間は―――・・・
そんな物語の一節が、頭にひらめく。
思わず手をかけた剣の柄が、衣服の留め金に当たって澄んだ音をたてる。
その時にはもう、歌は聞こえなくなっていた。
――この宴の地にいまだ放牧に来る集落があったのだろうか。誰もが美しく厳しい草原を離れ、谷底に定住し、冬には平地へ出稼ぎに行くことが当たり前になったこの時代に。
風が体にまとわりつくように吹いた。感じたことの無い感触に戸惑う。その戸惑いが晴れないうちに、今度はしっかりと人の気配がした。
草を踏む音。
ささやかに聞こえる、風の音。
「――誰?」
ガラスが震えて出す音にも似た、澄んだ声音が響いた。
風が声の主を取り巻き、長い髪をふわりと広げる。
彼は何も答えられなかった。
驚いた。――山の民が、山ノ神への巡礼者が、まだ存在したのだ、と。
こんな非科学的な因習を、自分以外にも行う人がいるとは思っても見なかった。
――巡礼の杖を持った、少女が風を纏って立っていた。