54


 消灯時間の過ぎた病院の廊下は仄暗く、どこまでも続いているように見えた。湧き上がる不安感からか、続く先は黄泉であるような錯覚さえおこす。こういう場所であるから、普通の目には見えない忌むべき道があっても不思議ではないと弓弦には思えた。
 眼前には自動販売機があり、低い音を立てている。昼間とは違う静けさがそれを耳障りに反響させていた。――エレヴェーターに程近い、休憩所である。検査のための部屋が集うフロアなので、消灯時間を過ぎた今は無人だ。
 弓弦は、座り心地が良くも悪くもないベンチに力なく腰をかけ、手の中で缶コーヒーをもてあましていた。
 静寂に静寂を塗り重ねるような滑らかな音が聞こえ、やがてエレヴェーターの開く音が聞こえた。休憩所までエレヴェーター内の光が漏れてくる。
 程なくして現れたのは、孜子だった。ここへ来た時は和装のままだったのだが、いつの間に着替えたのか洋装になっている。
「・・・こんなところに居ましたの?」
 疲れの混じる、そして呆れを含んだ物言いだった。
「どうかした?」
「まだ、どうもしないわ。あなたこそ、こんなところでどうしたの?」
「近くに居る勇気がなくてね」
「・・・そう」
 薫子が運ばれた病室はここから遠い。孜子がここを探し当てたことに、弓弦は少し驚いていた。しらみつぶしに探せば見つけもできるだろうが、彼女がそれをしたとは思えない。偶然だろう。
「キミは?何で、わざわざ?」
「宮野の屋敷に帰るから、それだけ伝えておこうと思って」
「今から?」
 弓弦は軽く眉根を寄せた。
 妹の危篤である。融通の利かない相手ではないのだから、彼女が戻る理由はない。
「あの子は、自分の死へ向けられる同情を嫌うでしょうから」
 きっと、孜子の言い分は正しい。
 この人生に満足しているわけではないと、薫子は悲痛に叫んだ。プライド高い彼女が人から哀れまれることを望むはずがない。弱さを見せたくないのだ。もし場所を選んで死ねるのならば、誰にも見つけられることのない場所を選ぶだろう。
「心配すらも、あの子にとってはわずらわしい物であったに違いないわ。最期くらい、願いを聞いてあげてもいいかと思って」
「そう、だね」
「あなたは?傍に居なくていいの?あの子の望みを裏切ろうとしたのだから、最期まであなたのわがままを押し付けてみたらどう?」
 首をかしげて問う孜子を、見上げた。ぼんやりとまとまらない思考が徐々にひとつの形へと収束し、やがて理解する。
「――ぼくが透に渡したのは、ただの睡眠薬だよ」
「そうね」
「キミが、秘術を薫に渡したんだ?」
「ええ」
「盗んだのも、キミ?」
「ほかの誰がやると思うの?」
 すました孜子の返事に、弓弦は思わず笑った。形だけの笑みだったが。
「薫は、すべて知ってたのか」
「そうよ」
「議会の思惑も、ぼくが裏切ることも」
「ええ」
「ぼくは、・・・わがままを押し付けていいのかな」
「いいわよ。あの子はあなたが裏切ることを望んでいたし、同時にこうなることも望んでいた。どちらも叶ったのだから、最期の最期、あなたが望むことをしたっていいと思うわ。むしろ、――そうするべきよ」
「うん」
 弓弦は微笑んだ。今度は心のそこから、満足して。
 それを聞きたかっただけなのだ。――彼女の望みが叶えられたかどうかを。
 すると無性に泣きたくなって、こらえきれずに微笑んだまま涙を流した。
「・・・・・・行かないつもりかしら?」
「うん」
「なぜ?」
 ベッドの傍らで、薫子の手を握る自分を想像した。それも在りえた未来だ。決して悪くないだろう。薫子もそれを拒んだりしないはずだ。
 けれど。
「・・・あまのじゃくなんだよ、ぼくも、薫も。そういう関係で、ここまで来た。いまさら、どうしようもないんだ」
 孜子は苦笑し、「そうね」と同意した。
 そのまま別れを告げることもなくきびすを返し、去っていく。
 エレヴェーターのドアが閉まったのを認識したとたんに、さまざまな感情が押し寄せて、耐え切れなくなった。
 体が要求するままに叫ぶ。その勢いのまま立ち上がり、手にあった缶コーヒーを床に投げつけ、傍らのゴミ箱を蹴飛ばした。それでも治まらなくて、手近にあった自動販売機を殴りつける。手が痛みを伝えてきたが、それよりも喉に溜まった熱のほうが耐えがたかった。首を絞めるかのように、ぐっと喉を掴む。
 その咳き込むような息苦しさがもたらしたのは、安堵だった。
 体の中で、何かが砕けるような音を聞いた気がした。
 きっとその瞬間に、薫子は呼吸を、鼓動を止めたのだろう。なぜか確信を持って言えた。――そうであると、信じていたかった。



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