53


 命令拒否を表向きにできない理由は二つあった。
 ひとつは、真家の立場があまりにも悪くなりすぎていること。――議会による頭領への反発の間、真家はほかの家々の支配下にあったといっても過言ではない。その傷を回復するためにも、役に立ってみせ、真家の力を見せる必要があった。
 ふたつめも似たようなものだ。真家が嫌々ほかの家に同調したといっても、一時的に頭領春家へ反旗を翻したことは覆しようのない事実。ここで頭領からの直接命令である今回の毒提供を速やかに受け入れることは、真家がもとより春家に逆らう意志がなどなかったというパフォーマンスになる。
 人の命と家の立場を天秤にかけるようなことは生理的に嫌悪感を伴ったが、これから先もこの春日で生きて行かねばならぬ人間の方が大勢いる。どんなきれいごとを並べて見せても、先のことを考えないわけにはいかないのだ。
 三家もよい立場にはいないから、三家当主は透に相当のプレッシャーをかけているに違いない。長男をそうして失っていながら、それでもまだ透に同じことをする三家当主のやりかたは気に食わなかったが、透をそれらから守ってやれるほどの余裕はなかった。
 薬包紙に包まれた白い粉末をながめる。
 秘術と呼ばれ、真家を支えてきたもの。――これもやはり、真家の人間には効果を表しにくい物質だった。真家に、真家の者を酷く侵す薬物はない。多くの場合で体を張って、己もそれを体に入れなければならなかったからだ。
 一族成立後、家々が婚姻で交わっていく中、真家だけはそれをしなかった。それどころか、血を薄め、子孫をなるべく作らない。医術の進んだ今の時代において、この体質は呪いでしかないのだ。
(たとえば、これを飲んだところでぼくは楽になれない)
 きっと苦しむ抜いた末に、死者の世界に行くことなく目覚めるだろう。多くの人間に、苦痛のない死を与えるというのに。
「それが、秘術?」
 ふいに声をかけてきたのは、百家の智親だった。――別に彼がいてもなんらおかしくはない。ここは宮野の台所なのだから。
「・・・うん」
「なんか、ほかの毒とそんなにかわらねぇな、見た目」
「どんな効果を狙ったものであっても、味や匂いは可能な限りないほうがいい。そういうものを選んできた結果だよ」
「物騒だな」
「百家だって、歴史を振り返れば似たようなものだろう」
「まあな、毒薬に詳しくないとは言えないな」
 百家は、昔も今と同じように、台所を拠点にした下働きの役目をしながら、情報を集め、屋敷の中に入ってきた敵の暗殺をしていたという。江戸の世で女性の地位が低く置かれたのに、それでも女系で続いてきた理由はその役職にあるのだろう。
「・・・殺すのか」
「ぼくに出来ると思う?」
「・・・・・・おまえは、薫の頼みなら聞くだろう」
「そんなことないよ。今まで散々裏切ってきた。お互い様だけどね」
 薫子が誰かに止めてもらいたいと願っていたとき、弓弦は何も言わなかった。弓弦がようやく薫子を止めようとすれば、薫子は弓弦から逃げる。そういう関係でやってきた。今さら、そんな裏切りの一つや二つ、怖くない。
「・・・孜子はどうしたの」
「寝てるよ。無理がたたったんだろ」
「・・・・・・大丈夫だよ、孜子は、強い」
「おまえなんかより、はるかにな」
「うん」
 会話は時折途切れながらも、ゆるやかに続いていく。
 やがて来るその時への恐れを、そうしてごまかしていた。
 ふいに智親が視線をそらした。――何かの気配に気づいたときの動作だった。春日のほとんどの間者が同じことをする。弓弦はその気配にあまり敏感でないためにできないが。
 間をおかずに、台所の戸が静かに開いた。開いただけで、開けた人物は無言だった。智親が開けた人物の姿を確かめ、そして弓弦に相手をしろとしぐさだけで言う。――そこにいたのは、三家の透だった。
 少女はうつむいて、体全体を震わせている。何があったのか、そしてこれから何をすべきなのか、それを見ただけで充分に理解できた。
「透、」
「あとは、真家のテリトリーでしょう」
 責めるような口調で、透が告げた。顔は伏せられたままだ。
「これでおしまい!そうでしょう?もう、・・・終わるのよね?」
 薫子の病のことを知れば、透は苦しまなかっただろうか。――そんなことはない。己への言い訳が変わるだけだ。
 透自身が選んだことだ。それをかばってやれるほどの余裕もやさしさもない。
(ぼくは、とても身勝手な人間だから)
 席を立つ。
 智親が問いかけるように見上げてくる。
「行ってくる。――あの子のこと、よろしく」
「じゃあ、マキに知らせてくる。あっちは・・・、現一にでも連絡すればいいのか?」
「落ち着かせるくらいのこと出来ない?」
「俺相手じゃ、なぁ?」
 智親は苦笑して、泣き出した透を手招きし、椅子に座らせる。
 それを見届けてから、弓弦は台所を出た。
 廊下に出てすぐに見つけたのは、春日の間者の一人。下働きでここへ来ている泉家の者だった。薫子の居場所を尋ねると、末若の所だろうと返答がある。
 末若の風邪はほぼ治っている。その影役が、症状を引きずっている様子だが、三日もすれば治ると思われる。なんせ、その影役というのが元気な少女なのだ。
 しかし、どうせ宮野の人間の前で事が起きるなら、姫か若君のところがよかった。彼らなら、春日という場所を理解している。口をつむぐことも、逆に喋ることも、そしてうまく処理する方法も知っているのに。
 末若の部屋の控えの間には、瀧家の若い間者と、泉家に属する末若の乳母がいた。――この乳母は、嫡男至輝や姫の乳母役である桂也乃と違って、本当に自分の乳で末若を育てた人である。弓弦とは十ほど年が離れている。
 二人は古めかしいストーブを囲み、お茶を飲んでいた。
「あら、弓弦さん?どうしたの」
 乳母が入って来た弓弦の姿を認めて軽く瞠目した。当然だ、なんの予定もないのに、医者がやってきたのだから。そしてこの反応を示すということは、彼女は何も知らないということだった。泉家の分家出身である彼女が、一族の血に染まった渦の中心にいるはずがない。
「薫子に用がありまして」
「そうなの?ちょっと待ってて。すぐに戻ってくるわよ」
「ええ」
 若い間者が急須から湯飲みにお茶を注ぎ、弓弦に差し出す。弓弦は礼を言いながら、座って受け取った。
「末若の調子はどうですか?」
 訊ねたとき答えるのは乳母のほう。もう一人は黙ったままだ。
「もうすっかり。操のほうが、まだ咳いてるわ」
「油断しないように。末若はすぐにぶり返すから」
「あらまぁ。すっかりお医者さまねぇ」
「茶化さないでくださいよ」
 他愛もないことを喋るうちに、ちょうど弓弦の背後のふすまが開いた。――末若の部屋に通じているところだ。
 振り返ると、案の定、薫子が立っていた。
「あら、弓弦?どうしたの?」
「キミに用事があって。ねぇ、今――」
 薫子を見上げ、その姿をしっかりと視界に入れる。
 その瞬間に、頭の中で警鐘が鳴り響いた。――さっと、血の気が失せる。引いていく感覚が鮮明だった。
「いま、・・・なんの用事で、末若の、・・・」
「八つ時だから、軽くつまめるものを」
 薫子が微笑んで答えた。その微笑みを形作る唇――それの端から、血の気が失せている。弓弦のそれとは比べ物にならないほどに、はっきりと、致命的に。
「なんで、」
 そう呟いてしまったのは、失態だった。それを指摘するかのように、薫子が小首をかしげる。
(嘘だ・・・!)
 震えだそうとした手を握り締めた瞬間に、弓弦は立ち上がっていた。そして薫子を押しのけるようにして、彼女の背後にあったふすまを開け放つ。主へのあいさつなど、やっている余裕はない。とにかく、回避しなければならないことがあるのだ。回避するために、ありったけの声で叫んだ。

「口にしてはなりません!」

 部屋では、色とりどりの菓子が入った皿を前に、末若とその影役が目を輝かせ、手を伸ばしているところだった。
 無礼かどうかなど気にする余裕もなく、その場から末若を引き離す。彼が持っていたクッキーがぼろぼろと畳に落ちた。
 二人は、ただただ驚いていた。
「なんだよ・・・っ」
「何か飲み食いなさいましたか!」
「し、してない・・・まだ、・・・」
「お茶も、手をつけていませんね?!」
「うん・・・」
「リツ!すぐに二人を部屋から出して!手を洗わせて!」
 乳母役を呼びつける。叫ぶまでもなく、彼女は弓弦の後を追っていたらしく、すぐ傍にいた。
「なにがどうしたっていうの・・・!」
 少し怒気を含んだ乳母役の声は、控えの間の若い間者の悲鳴によってかき消された。
「薫さん?!」
 はっと顔をあげると、開け放たれたままのふすまの向こうに、倒れた人の姿が見えた。若い間者が、その脇でうろたえている。乳母役がそれを見て、顔色を変えた。怒りの赤から、――驚愕の蒼白へ。
「これは・・・!」
「真家当主に連絡を!今すぐ!早く!」
 若い間者に向かって怒鳴る。怒鳴られたことで混乱から立ち直ったのか、若い間者はすぐに走り去っていく。
 乳母役が末若と影役を引きずるようにして部屋から連れ出すのと同時に、弓弦は倒れた人へ――薫子へと駆け寄った。
(どうして・・・!)
 叫びたいのを堪えて、薫子の体を抱え起こす。支えた体は戦慄を覚えるほどに軽いのに、恐ろしく重いようにも思えた。美しく強気に彩られた顔からは血の気が引き、人形のように白くなっている。真家の秘術を使用したときの症状だ。
 だが、なぜ、と。問いかけが何度も繰り返された。
 透が盛った毒は秘術などではないのに。
 弓弦が彼女に渡した毒は、ただの睡眠薬だったはずなのに!
 彼女が微笑む。ぞっとするほど、艶然と。
「薫・・・!」
「・・・驚いている?それとも、裏切られたとでも思ってる?私を支配できるのは私だけ。――何者にも侵されないわ。それが私の誇りよ」
 議会にも、あなたにも、と。
 掠れた声が聞こえてきた。
 弓弦は歯を食いしばって感情を押しとどめ、聞き取ることに集中する。
「ねぇ、弓弦?」
「・・・なに?」
「愛してる」
「・・・・・・」
「だけど、あなたのために死ねるとは言えない。月が綺麗ねと言えるほどの綺麗な想いでもないのよ。――これは何なのかしら、こう言って、あなたにどれだけ伝わるのかしら」
「わかってる、言わなくていい」
 わかっている。同じものを抱えているから、知っている。
「・・・私、あなたのことより自分のことのほうが好きだったんだと思うわ」
「うん・・・それでいいよ」
 すでに目は閉ざされている。唇が震えるようなかすかな動きを見せたが、言葉はもう聞こえてこなかった。
 十数日後か、数時間後かの差なのだ、彼女の死は。
 けれどどうしてこれほど絶望的な気分に陥れるのだろう。
 胸の痛みから搾り出したように、涙が一滴、こぼれた。それは薫子の頬をぬらし、すべっていく。
 彼女の額から髪に指を差し入れ、そっと梳く。こしのない髪はするりと指を通り抜けた。
「かおる」
 焼けそうなほど熱を持った空気が喉を通り抜ける。
 現実と意識をつなぐものはその熱と痛みだけだった。腕の中にある人の重さは、あまりにも軽すぎて、現実感に乏しかった。



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