51


 畳を踏む音が聞こえてくる。静かで、しかし重みある、すべるように歩く人のもの。
 それよりも前に、この離れの板の間の廊下を来る音や、部屋の戸が開く音も聞いていた。だが、こちらに近づいてきたと認識できたのは、畳を踏む音からだった。
 重たいまぶたを少しだけ持ち上げ、視線だけめぐらせる。
 果たして、目の前には見知った人の姿があった。
 ――良家の現一。
「伝令だ」
 ぐったりと壁に背を預けて座り込んだ弓弦に、高い位置から、低い声が落とされる。
「――真家に毒薬の提供を要請する。秘術であることが好ましい」
「・・・用途は?」
 自嘲するかのように、口の端をほんの少しだけ吊り上げて尋ねる。
 また秘術を望むらしい。――議会は体勢を立て直したのか。それともまた別の形に落ち着いたのか。どのみち権力を握るものが入れ替わるとき、毒の需要は増す。これはきっと、序章なのだ。
「百野薫子の暗殺だ」
 すっと、重たかったまぶたが持ち上がって視界がいっきに広がった。顔を上げて、言葉を告げた者を凝視する。睨むように。
 無言で先を促した。議会がまた「忠誠」を誓えと迫るのならば、真家は拒否しなければならない。それがどこからの伝令であるのか、はっきり聞かなければ、答えられなかった。
 現一は、もともとにこやかとは言いがたかった表情に一本しわを増やした。
「真家は、毒薬の提供だけでいい。実行はほかの者に任せられる」
「へぇ?」
「なお、これには拒否権がある。――今回に限り、どんな形の拒否も、頭領によって許される。真家当主の許可もあって、決断はすべておまえにゆだねられている。拒否するも、受け入れるもおまえの自由だ。・・・それがどんな形でも、許される」
 弓弦の意識が最初に拾い上げた単語は、「頭領」だった。
 間者たちの拒否権は、頭領によって与えられる。――すなわち、
「じじさまが、・・・薫を殺せと?」
 現一は首を横にふった。
「それは、おまえの自由だと」
 意味を理解するよりも前に、皮肉な笑いがこみ上げてきた。その場にあった空気に体だけは敏感に反応したらしい。
 現一がそれを見て、目をそらす。そして、そらしたまま続けた。
「意味わかってんのか」
 そう尋ねられて口を開く瞬間に、初めてことのすべてを理解した。すでに脊髄反射で反応をしていたので、改めて表情を変えることはしなかった。
「ああ、・・・そうだね。あの方は、酷なことをなさる」
 吐息とまぎれてしまいそうな声で言う。
 薫子の最期をどんなものにするか、それは弓弦にゆだねられたのだ。
 薫子の望むものを、もう知っている。そして自分の望みも。
 だからこそ、今さら絶望することはなかった。



BACK   TOP  NEXT