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弓弦は答えを返すことが出来ずにいた。
動くことも言葉を返すことも出来ずにいた孜子と弓弦に対し、智親は最初から動じることなく成り行きを見守っていた。何もかも知っていたのかと思わせるほどに、彼は静かだ。
「か、おる・・・」
声が震える。
「なにを、するつもり・・・?」
質問に対し、薫子は薄く笑んだ。そしてすぐに答えることはせず、孜子と智親に向かって退室を願う。智親はすぐにうなずき、ぐったりと弱りきった孜子を連れて姿を消した。と言っても、この離れの別の一室に移っただけだ。場合によっては、ここで交わされる会話が聞こえる距離に控えているだろう。
けれど薫子は、傍に耳がないか確かめることはしなかった。つまり、聞かれても構わないのだ。
「かおる・・・?」
「あなたはきっと怒ると思うの」
微笑を崩すことなく彼女は言う。
聞き返すことは出来なかった。聞き返す前に、答えを知っていた。そしてその答えを彼女の口から聞きたくなかった。
「・・・・・・いやだ」
「なんでそんなこというの」
「薫・・・っ!」
「聞こえているわ」
「・・・!」
弓弦が言葉を失い、しかし手を痛いほどに握り締めて何かを伝えようと喘ぐのに、薫子はやはり表情を変えなかった。
なぜだろうか。なぜこの世はこうも残酷なものに満ちているのだろうか。
せめてこれを知らなければ、もう少しだけ、幸せでいられたのに。
――彼女は殺されたかったのだ。
議会が自分を殺そうとすることなど予想済み。むしろ、彼女が仕組んだことなのだろう。
彼女を議会に殺されまいとして必死に考えて必死に行動してきたのに、結局は、彼女の望みを壊していただけに過ぎないのだ。
「・・・・・・かおる、」
自分は泣いてしまうかと思ったのに、涙は出てこなかった。
「死なないで」
駄々っ子のように、情けない声でやっと告げる。
彼女に触れようとしたが、彼女はそれを許してくれなかった。同情や欲情が少しでも混じると、彼女はするりと逃げるし、彼もほとんどの場合においてそうしてきた。――最後までこの距離は保たれるのだ。死に際して自棄になるようなことはない。孜子に「あなたと薫の関係がよくわからなくなる」と苦笑されるこの距離は、お互いを歪めない距離。これを破れば、弓弦は正気ではいられないだろうし、薫子は美しくいられない。――知っていた。最初から、知っていた。
「・・・不思議ね、さよなら、よりも、一緒に来てくれない?って言葉のほうが自然と出てくるのよ」
薫子は苦笑するように、表情をゆるやかに動かした。そのときに、薫子が相当の苦痛を押し隠していることを悟る。
「あなたがここへ来たときに、私はとてもうれしかったわ。あなたに殺されるのなら、未練なく死んでいけると思ったの。そのうえに、あなたは私を殺した罪悪感で、きっとずっと苦しむわ。こんな幸せなことはないと思った」
その幸せを想像したのか、薫子の表情が少しだけ緩む。
「でも、そうね、あなたには無理よね。だから、――毒を私にちょうだい。安心して欲しいのだけれど、ただでは死なないわ。人の死がもたらすエネルギーは、悲しみだけに留まらせるにはあまりに惜しい価値がある。自殺?違うわよ、笑わせないで。私は簡単に己を散らせるほどに、終われるほどに――・・・この人生に満足してるわけじゃない!」
これだけの迫力を纏いながら、そして感情的でありながら、薫子の声はそれほど大きくならなかった。怒鳴る力すらない、そう思わせた。
「私自身の手では、幕を下せないの。だから、お願い」
薫子の唇の端が、震えていた。
表情はすでに泣いているのに、涙だけが欠けている。逆にそれが、悲壮感をあおった。
「止めたいなら好きにすればいい。どうやって止めるかは、――任せるわ。だから、そう、止めても良いから、・・・毒をちょうだい」
嘘だ。――嘘ではないけれど、嘘に等しいだろう。
弓弦程度では、本気の彼女に太刀打ちできるはずがない。
止めても良いから、と言っているが、止められる者がないと彼女はわかっているのだ。
卑怯に思えた。けれどその賢しさが、痛いほどに愛おしかった。死に行く者への同情だとわかっていても、その感情を止めることはできない。
(毒があれば、薫は満足してくれるのか?)
そんな感情にまみれた弓弦を、おそらく彼女は見破る。見破られて見放されたくない。蔑まれるのだけは、いやなのだ。
だから。
「もう一度言わせて欲しいんだ。――・・・・・・死なないで」
薫子は今度も表情を変えなかった。そう、とうなずくときびすを返して去っていく。
歩くことすら苦痛になっているはずなのに、一度だってふらついたりしなかった。それが彼女のプライドであり、彼女のあり方だ。
それでも一瞬だけ、――泣き崩れ、弱気になり、人を頼るような人間であればよかったと思った。そうであったのなら、彼女を同情の中に漬けて甘やかし、自分自身にも同情を浴びせて、楽な最期を迎えることができたはずだっただろうから。