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「私も、はっきりとした情報はつかんでいないの」
孜子は青い顔をしている。それでも取り乱すことなく、冷静に状況判断をしようとするのはさすがと言えた。
屋敷の中は、騒がしさに包まれている。――春日を担う家の当主が倒れたのだ。ここは春日の間者が多く働く場所であり、そして現在は、このたびの一件で議会から命令を受けて来ている者も多くいる。
こうなれば、おそらく命令は覆される。
身を潜めていた者たちも、事実確認のためににわかに動き出し、また、状況判断もままならない若年者や下級間者は目に見えて混乱していた。
会話の場所は台所から離れの一室に移されていた。周りに耳がないよう気を配る余裕がないと孜子がここを選んだ。本来ならば宮野家の主の許可なく使うべきではなかったが、緊急事態だ。
「でも・・・・・・状況から言って、フジが、賢治を切り捨てた。もしくは陥れたのだと思うの」
背筋を伸ばすことすらつらそうな孜子の傍らに智親が座り、その背中を支えていた。智親の表情はそれほど変わらない。先ほどより多少は真剣みを帯びたが、それでも事が動いたことに対して興味を持っていないのだと感じ取れた。いかにも彼らしい。
「ふじ、が・・・」
「ええ、・・・彼は確かに賢治について言及してなかったものね」
「・・・あの子が、情の深さを表すのは好きな人に対してだけだしね」
共に育ってきた宮野の若君と姫、おそらくは彼と一番近い立場に置かれていた徳美、そして最も近い思考回路を持つ薫子。一族の中で、フジが親しみを表す相手はそれくらいだ。薫子については、他とは違うが。
もっとも、一族を出れば彼にだって友人はいるらしい。そして彼のことだから、友人として認めた相手をこちら側にかかわらせることは決してないだろう。
「賢治が助からないって言うのは、正確にはどういうことなの」
それは今の今まで聞けなかった。
聞いてしまえば冷静を保てる自信がなかったからだ。自身は今もないが、訊ねるという行為を思い出すくらいには落ち着いた。
「・・・少なくとも、死の淵に立っているという意味ではないわ」
いびつな嘲りを浮かべて、孜子は言った。
「なるほど・・・・・・」
口中に広がる苦味に顔をしかめながら、弓弦はうなずいた。
すなわち――、滋家の当主を襲った犯人が賢治であると、「発覚」した状況なのだ。そういう意味と受け取って間違いないだろう。周知の事実でも暗黙の了解で許されているのならば問題ない。春日とはそういう場所だ。だが実際は違う。誰も覆せない、彼のことを庇ってもやれない。
「・・・・・・ケンは、死ぬのか」
ぽつりと言ったのは智親だった。賢治とは同い年の彼は、かつては弓弦よりも賢治と親しい関係にあったのだろう。ほとんど感情をゆるがせることのない彼が、少しだけ動揺の色を見せている。
「・・・その可能性は、ある」
否定は出来なかった。当主に刃を向けたとなれば、跡継ぎであろうと他家の当主であろうと、一族においては重罪だ。
フジはとにかく滋家の当主に消えて欲しかったのだ。それが文字通りの隠居だろうと地獄での隠居だろうと、かまわない。その後に当主の座に納まる人間は、もちろん人間性を知っている賢治が望ましいと、フジ自身思っていたはずだ。賢治はフジを嫌っているが、好き嫌いと一族を代表する人間同士としての付き合いやすさはまったくの別物だ。
しかしフジはそれを切り捨てた。
彼もぎりぎりの選択をしていることは察しのつくことだ。
(だけど、)
フジは三日前、誰が大事かと弓弦たちに決断を迫った。彼自身は、薫子と至輝ならば至輝を選ぶと言い切った。弓弦はその場で、薫子を選んだのだ。もちろん至輝と比べて、ではない。あの状況で選ばなければならないすべてと量り比べて、薫子だった。
「賢治が当主に納まらないのなら、・・・・・・議会は、一族は、混乱するだけじゃないか」
問題はそこだった。
当主が倒れたとき跡継ぎがいるのならば、正式に当主として任命されなくても臨時当主として扱われる場合がある。成人も迎えていないような若年者ならともかく、賢治は三十路前の大人。犯行が「発覚」していないのなら、間違いなく彼が代理として納まり、家としての意見を翻して頭領の下に復帰するはずだった。
だが実際に訪れそうな状況は、完全なる当主不在。
薫子の暗殺は一時中断せざるを得ないことにはなるだろうが、すみやかに頭領のもとに権力が戻ってはこない。
「二ノ春日を完全に議会から遠ざけるため・・・・・・いいえ、逆効果よね?二ノ春日は滋家の勢力を取り込みたがっていた、というのだから、この状況は彼らにとって絶好のチャンスになるわ。二ノ春日に力を持たせるのは危険だと言ったのはフジなのに、・・・どうして」
呆然とつぶやく孜子。それに覆いかぶせるように声を発したのは、智親だった。
「それだ」
その声は、やけにはっきりと響いた。
「由布姫の秘密だ、おそらく。滋家は姫の秘密を餌にして二ノ春日を利用していた。――利用はお互い様だった」
孜子が目を見開き、従兄のほうをまじまじと見つめた。
弓弦の中で、そしておそらくは孜子の中でも記憶がよみがえる。――フジは「由布姫の秘密が二ノ春日側に洩れそうだ」と言って今回のことを起こした。
弓弦も孜子と同様に驚いていた。
その理由――、智親は知らないはずなのだ。由布姫の秘密と呼ばれるそれを。
そんな二人の驚きを置き去りにして、智親は淡々と語る。
「滋家で姫の秘密を知るのは、あの当主と賢治だけだろう。洩れる元を断ったんだ、十家の跡継ぎは」
話がつながっていく。
すべてを見ていたと思っていたのに、それは幻覚だったらしい。
フジが選択させたのは、これなのだ。薫子を乗せた天秤のもう片側にあったのは、議会や一族の平穏や、あるいは自己の保身などではない。
「そしてもうひとつ絶った・・・だろうな、たぶん」
最後に小さく、疲れたように智親は吐き出してから黙った。言葉の先を尋ねる余裕など、弓弦にも孜子にもなかった。
余裕を取り戻すよりも先に、まるでタイミングを計ったかのように離れの外から足音が聞こえてきた。小石を敷き詰めた庭は、歩く人の気配を強める。そういうものを読むことに長けていない弓弦でさえ、その足音がここへ近づいてきているのだとわかった。
室内は沈黙が降りて、空気は硬いものへと変質した。
からり、と離れの戸が開く音が聞こえる。
そこで孜子が立った。部屋の戸を開け、離れに入ってきた人物を確かめる。
確かめた彼女は、二、三歩後ずさって、智親に頼るようにその場に座り込んだ。
逆に弓弦は腰を浮かせた。
「・・・どうして、」
息を、意識的に吸い込む。
部屋の入り口に立っていたのは薫子だった。
しっとりした和服を身にまとい、モデルのように背筋を伸ばし、いつものように自信に満ちた姿で立っている。
「あら、どうしたの、孜子」
薫子が小首をかしげて尋ねた。孜子は呆然とした様子で首を横に振る。
「・・・・・・いいえ、なんでもないわ」
姉妹の会話には聞こえなかった。少なくとも、孜子のほうが姉であるようには見えない光景だった。
薫子の前では、少なくない数の人間が彼女に圧倒された。そんな中で、これまでずっと、孜子は常に涼しい顔で薫子の傍にいたのだ。
しかし今目の前にあるのは、怯えるかのように身を固くした孜子と、王者のごとき雰囲気を放つ薫子。
その薫子が、弓弦へと視線を移した。
ゆっくりと、その表情は笑顔へと変えられる。
「弓弦」
返事は出来なかった。喉は薫子の放つものに圧迫されて、空気を通せなかった。
「毒が欲しいの。苦しまないやつのほうがいいわ」
艶やかな声が彼の名前を呼ぶとき、彼女は常に残酷だった。