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廊下に出た弓弦の隣に、すばやく孜子が並んだ。何事もなかったかのようなそぶりで歩き出す。弓弦が今にも倒れそうに心労を感じているのに、彼女は動揺すらしていないように見える。こういう強さが、薫子の姉であることを強く思わせる。
「・・・孜子、」
「あの子が大丈夫というのだから大丈夫です。どうぞ、仕事に戻って」
「――全部、聞いてた?」
「あなたと薫の関係が良くわからなくなる程度には、聞いていましたわ」
「なに、それ・・・」
意味をうまく理解できず、――ただなんとなく、ばかにする色がほんの少しあることだけを嗅ぎ取って――苛立って眉根を寄せた。
孜子は何も答えなかった。
それよりも先に、廊下の向こうに現れた人物へ注意がむかっている。
簡単な着こなしではあるが、和装のフジだった。和服は女物ばかりが目立つ彼だが、めずらしく男物だった。
フジは厳しい表情で二人のほうへ大またで向かってくる。
後ずさりしたい気分に襲われたが、横に居る孜子が堂々と対峙するので、さすがに弓弦だけ逃げるのは格好が悪い。
「話がしたい」
「誰と?薫なら無理よ」
孜子が答える。
「おまえと、弓弦と」
「・・・・・・内密に?」
「当然だ」
フジと孜子は互いに刀でも構えているかのような緊張感の中で短く会話する。
孜子はしばらく沈黙していたが、やがてフジと弓弦双方に目配せした。
「こっちへ」
そうして案内されてついた先は、孜子のこの屋敷における私室だった。
弓弦が現在借りている部屋と大きさは変わらない。だが、孜子は長年ここに住んでいるせいか、整理されていても物が多く、生活臭があった。
「・・・なんで、薫とは離れた部屋なの?」
「あの部屋が一番安全なのよ。あの子の言い分ですけれどね。――他の部屋へは一面しか接していない、一番人が通る廊下で、背後の窓からは外へ逃げられる」
「なるほど、あいつらしい」
うなずいたのはフジだった。
図々しくも、部屋の主が許可を出す前からこたつに足を入れている。手を伸ばしてスイッチも。
孜子はその様子を渋い顔で見ていたが、何も言わずに、弓弦に座るよう促した。自らは入り口近くに座って、外を警戒する。寒いのに、よく我慢がきくものだと内心とても感心していた。
「で?何の用?」
弓弦が聞くと、フジはふんと息をついて、吐き捨てるように言う。
「――このままじゃ透が持たない」
弓弦は眉根を寄せ、孜子も聞く体勢を改めた。
「はじめからわかりきってたことだ。新参者の透には三家の仕事なんて無理なんだ。それを無理やり、あそこの当主が」
「透に、薫を殺せと?違うだろう、三家はぼくの監視役だ」
「そのおまえのタイムリミットが近いから、透が今にも発狂しそうだって話だ」
声の大きくなったフジを、孜子が思いっきりにらみつけた。
フジはまったくかまわない。
「おまえがことを起こさなければ、透がなにかやらなければならない。だけどあいつにそんな度量あるわけないだろう。今にも死にそうな顔してる」
「だからって、ぼくにどうしろと?」
「それは脇において、もうひとつ問題がある」
「キミが語ることすべてが問題のような気がするけどね」
嫌味に孜子がすました顔で「そうですね」とうなずき、フジがそれを鼻で笑い飛ばす。
「悪いけど、おれにも余裕がないんだ。――姫のことが二ノ春日側に洩れた可能性がある。おれはそれをつぶしに行く」
「姫?なんで今の時期に姫が、・・・それに若君の護衛がキミの仕事だろう?」
「姫の秘密が知られたら、宮野の立場が悪くなる。それを隠蔽してきた春日本家や議会も。――薫子の仕込みが、今になって動き出してるんだよ。ところが薫に気を取られてた議会じゃあすぐに対応できないっていうから、おれが行くんだ」
「この状況で、わざわざ議会を守るっていうのか!」
「まさか。おまえがさっき言っただろ、弓弦。おれが守るのは至輝だ。至輝と、あいつが将来背負う宮野だ。それから、姫と。・・・あいつらを犠牲にしてたまるか!」
議会が焦れば、薫子への興味が多少は薄れる。
賢治もやりやすくなるだろう。賢治が事を成し遂げれば、議会の暴走は止まる。薫子暗殺なんて「ばかげた喜劇」も終わり、結果として透のことも解決だ。
そう考えると、いつかは明るみにしなければならないところまで来ている姫の秘密など、些事にしか思えなかった。
だがフジは首を振る。
「姫のことを知らせるにも時期がある。この状況でやってしまえば、二ノ春日にそうとう有利に働く。二ノ春日に力を持たせるのは危険すぎる」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないと思うけどね」
「あの家をなめるな。あそこの当主は第二の薫になりうる存在だぞ。そのうえ、薫と違ってゲームを楽しむような優雅な性格じゃない。滋家をやつらに掌握されかけてるってのに、んなアホなことさせられるか!」
「だけど!」
がん!と音が響いた。
驚き身をすくめたのは弓弦と、そして孜子。孜子は迷惑そうにフジをにらみつけた。
「人の部屋のものを壊さないで!」
「・・・壊れてない」
フジは自分の手をもう片方のそれで握りながら反論した。――こたつ机を思いっきり叩いたのだ。かなり痛そうだった。
孜子の怒鳴り声と迫力が、会話を数秒間寄せ付けなかった。
やがて、フジが誰とも目を合わせずに言う。
「・・・至輝と薫なら、おれは至輝を選ぶ」
「・・・・・・フジ、」
「おまえは何を選ぶ?――孜子、あんたもだ」
孜子は一拍迷う素振りを見せたが、まっすぐフジを見据えたまま答えた。
「選ばせてくれるというなら・・・ごめんなさい、血縁のほうが可愛いの」
あやまるなよ、とフジが軽く笑った。
そして、二人の視線が弓弦へと集まる。
彼らは弓弦の答えを知っている。知っているが、ここで口にすることを求めている。
平安の昔からの言霊信仰の残骸か、人は口に出すことを求める。言葉を求める。
「なんでいまさら。薫に決まってる」
その言葉を受けて、フジがうなずいた。
「今回ばかりはおれが頭を下げなきゃいけないらしいな。――瑞貴を貸す。あれをうまく立ち回らせれば、議会からのプレッシャーは半減させられるだろう。孜子、頼む」
「いいでしょう。あなたが周囲を整えてくれるというのなら、協力するわ。二ノ春日を増長させたくないのには同感だもの」
薫子はこれから死の世界に行くけれど、自分たちは彼女より長く生きる。生きているからこそのしがらみはいくらでもあるのだ。それを考えないわけにはいかなかった。
「それでいい、頼んだ。それから、透のこと。議会からかばってやって欲しい」
「それも私の役目かしら?ついでだからいいけれど、どうして?」
「おれと現一との契約だから」
「あら、現一がやけに素直にあなたのおつかいを引き受けてると思ったら、そういうことなの?」
「そういうこと。――こっちでも現一に動いてもらうから、それほどおまえの負担にはならないはずだ。頼むよ」
あっという間に、二人の間で物事が決まっていく。
二人の話がひと段落するまで十五分。弓弦が口を挟む隙間などなかった。
「・・・・・・ねぇ、なんでぼくはここに呼ばれたのかな」
少々卑屈な気分でつぶやくと、フジと孜子が軽く吹き出した。
「あらいやだわ、いじけちゃって。いい大人のくせに」
フジが笑みを残したまま、説明を続ける。
「賢治が滋家をひっくり返すまで、長くてあと三日。あっちがたとえ失敗しても、三日のうちにおれはこちらに戻れる。――三日間だ」
「その数字の根拠は?」
「賢治が滋家の追跡を振り切ってられるのはせいぜいそれくらいだ。日にちを見立てたのは現一だけど」
「・・・なるほどね」
現一はフジよりも春日の裏事情に近い位置にいる。信頼できるのだろう。
「その三日の間、ぼくに何かすることはあるの?」
尋ねた弓弦に、フジは女性めいたしぐさでくすりと笑いかける。
「ない」
一刀両断という言葉を思い起こさせた。
孜子が私ばかり忙しいなんて不公平ねと笑みを浮かべてつぶやく。
「おまえができることなんてなにもない。いまさらなんだよ。だから、」
いまさら。
この言葉はフジの口から何度か聞いたような気がする。
「病人の相手でもしてろよ。こっちは邪魔さえされなかったらいいんだ」
彼は人を責めながら、それでも必死に想おうとしている。
それがわかったから、少しだけ穏やかなものを感じだ。