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ふすまを開けた先に、覚悟した光景はなかった。
弓弦を先導していた孜子も、少々拍子抜けしたらしい。一瞬表情を固め、その次にため息をついた。
中には、布団から半身を起こした薫子がいた。
無言のまま弓弦が部屋に入ると、孜子は周囲を警戒しながら廊下へ出て、ふすまを閉める。おそらく部屋の前で人が来ないよう見ているつもりだ。――薫子の現状を、盗み聞きされるわけにはいかないから。
弓弦が一歩近づいて座ると、薫子が微笑んだ。
いつだったか、病院で彼女とあったときのことを思い出す。あの時も彼女は半身を起こし、微笑んで弓弦を迎えた。
「・・・大丈夫?」
「意味がよくわからない質問ね」
彼女は実に楽しそうに、そして強気な笑みを浮かべて言う。
どうやら彼女は、己の隣にはべる死神とすら、冗談を言い合えるらしい。それが彼女らしいといえば、そうだった。
「もう、動けない?」
「あまり、動けないわ。だけどすべての手は打ったから、あとは待つだけなのよ。それを全部、私が見ていられるかどうかはわからないけれどね。――とても残念よ。私が書いたシナリオの上演を、見られないなんて」
声音に力強さがなくなった。――気づきたくもなかったそんなことに、いまさら気づく。
「ねぇ、――死した後に認められる芸術家は、どんな思いで臨終のときを迎えたかしら?」
「・・・さあね」
「その人が真に己を信じていられたのなら、きっと認められる未来を思い描いて幸せに目を閉じたと思うの。――少なくとも、私は今幸せな気持ちで目を閉じられるわ。シナリオは間違いなくその通りになる。だって今までそうだったんだもの。これから後は些細な修正すらきかないという意味ではとても緊張するけれど、でも、いいと思えるのよ。きっと私の予定通りでなくとも、私の望んだ形のひとつであることには変わりない。――そう、きっと」
「薫、まって、」
彼女が語りだした内容が、まるで遺言のようになり始めたことに、弓弦は焦った。
彼女の好きなように思うままにさせてやりたかったが、それが最期であることを思うと、受け止めきれない自分が居た。
とても平常ではいられない弓弦に、薫子は微笑む。
「だから未練はないのよ」
「待って・・・、」
「待ってくれないのは私の短気ではないのよ、弓弦」
まるで、聞き分けのないこどもを諭すように。
「できうる限り長く、そして正気でいたいわ。そして正気でいられなくなったら、幕を下ろすの」
薫子の言に含みを感じて、不安が首をもたげる。
「・・・何をするつもり?終幕だからって、派手にする必要は、ないよ」
「心配しないで。あなたには荷の重い役を任せたりしないから」
「そうじゃない。――聞いて欲しいんだ。一度くらい、ぼくや、ぼくら力のない間者の言葉を」
ようやく告げたその台詞を、薫子は興味深げに聞いた様子だった。
先を促すように、彼女は首をかしげる。
「聞いてあげる。でも、少し疲れたわ。横になっていい?」
「・・・もちろん」
受け答えをしながら、弓弦は必死で言葉を捜した。長く言葉を連ねる時間はない。できるだけ少なく、けれどできるだけたくさん伝えなくてはならない。
「・・・キミが騒ぎを起こしたとき、ぼくは、苦しんだよ。きっと、巻き込まれた人の多くがそうだ。自分の考えとか主義主張とか立場とかの狭間で、身動き取れなくなって潰れそうになりながら、きっと苦しんだ。――そのことで、キミをうらむ人も少なからずいる。同時に、何かの板ばさみになって醜くもがくことのないキミにあこがれる人も、少なからずいる。
ああ・・・どうしてかな。うまく言葉にならない。
ええと、・・・ぼくらキミにあこがれる人間って言うのはつまり、キミの立ち位置にあこがれてるんだ。キミになりたいと望んでる。だけど、そう簡単になれるわけじゃない。大概、無理だ。その位置にキミがすでにいるし、キミほどの才能を授かれる人は稀だしね。少なくとも、ぼくにはなかった。
何度も言うけど、キミはぼくらのあこがれなんだ。――それなのに、キミはその位置を放棄しようとしている。
くやしいんだよ。キミを追い落とそうとする者を憎く思うし、それを受け入れようとするキミに失望を感じる。人を巻き込み陥れることすら躊躇わないからこそ、キミは美しかったんじゃないのかって。美しくて容赦なくて、己の行動に言い訳しないから、キミを憎む人は心行くまでキミを憎んで、キミにあこがれる人はそれゆえにあこがれた。
だから。
逃げるために、ぼくらを巻き込まないで。
最期を見ているというのなら、最期までキミでいて。そのためなら、少なくともぼくは、巻き込まれてもかまわない。キミに利用されようと踏み台にされようと。
キミが、薫が、・・・一瞬でもぼくを見てくれるなら」
途中から、薫子は目を閉じていた。
沈黙が数秒続いても、彼女は微動だにしない。眠ってしまったか、あるいはもっと深く眠ってしまったか――そんな思いがかすめてゆく。
だが、それでもいいと思えた。
すべてを彼女に聞かせたかったわけではない。自分が言葉にしてみて、整理したかったところも多い。
そんなことを考えていたら、薫子が目を開けた。同時に、口も。
「人は勝手だわ。私がそうであるように、・・・誰でもなのよね。私にだけ逃走を禁じる?そうね、私もそうしたいわ。逃げるなんて、格好悪いわ。――ねぇ、私は今逃げているのかしら?今までと違って消極的な手段をとっているかしら?どうなの?私にはわからないわ」
途中から、声に涙が混じっていた。
「――もう、わからないのよ」
「薫・・・、」
「それでも誰かを頼るわけにはいかないの。だって、人を頼るなんて、私らしくないでしょう?だから自分で決めたのよ。決めたの。――これ以上、何も言わないで。お願いよ。言われたら、すべて否定された気分になると思うわ。私が私らしく立っているんだって、勘違いでもいい。私に、そう思わせて。私がそう思っていなければ、間違ってるってことになるから」
彼女は確かに、一人で立っていた。
強く確かに立っていたかつての姿はない。よろめきながら、ふるえながら、それでも立っている。杖にすら縋ろうとしない。
こんな風に泣く薫子を、はじめて見た。
それが死を目の前にしているからだという事実を思い出させ、こちらまで泣きそうになる。
息苦しくなって、熱を持った息を震えながら吐き出した。潤む目を瞼で覆い、熱が去るのを待つ。
ふいに、手を握られた。
目を開くと、横になった格好のまま、薫子が手を伸ばしていた。
「ねぇ、・・・体がどうにもならないところにあると知ったときに、正直私は迷わなかったのよ」
「・・・・・・うん、」
「それまで、迷っていたわけじゃないけれど、やりたいことが多すぎて、何を優先すべきか悩むことはあったわ。だけど、体のことを知ったときにね、」
大きく一息。
「やるべきことが、見えたような気がしたわ。ずっと覆っていた霧が退いて、視界が晴々としたの」
そして、涙の跡の残る顔で微笑む。困ったように。
「だけど私がたどり着いたここは、どこなのかしら」
一度目を閉じ、深呼吸をして、彼女は再び静かに目を開いた。
弓弦が言葉を失っていることに気づきながら、彼女は言う。
「――・・・もう大丈夫よ。大丈夫。だってまだ、見ていたいもの。この世が私の手中にある様を」
ありがとう、話をしたかったのよ。
そう言って、弓弦の手を握ったまま彼女は目を閉じた。
静かな寝息が聞こえ始めて、弓弦は同じくらい静かに涙を落とした。