45
弓弦が宮野入りを許された表向きの理由は、宮野家の次男・真綾の看護だった。
議会の都合よく、真綾は風邪をひいていた。――これがなければ、また別の理由をでっち上げたのだろうが。
宮野真綾(まあや)は、春日一族の者たちから「末若」と呼ばれる。現在は小学四年生で、嫡子である至輝とは八歳の差がある。
宮野家の子息なので、当然影役もおり、その影役も仲良く風邪を引いて寝込んでいるとのことだった。
影役は滋家の女児である。表向きには賢治の従妹だが、事実かどうかは怪しい。竜輝の例に見られるように、滋家の内部は複雑なのだ。
弓弦と同様に、十家のフジも宮野入りを許されていた。名目は、若君の周囲が不穏であるため。つまりは護衛役、彼の前歴を考えれば一時的な影役である。
その名目が、弓弦と同じくでっちあげなのか事実なのかはうかがい知れない。
ただ、「協力しろ」と言ってきたフジである。彼からの接触は未だになかったが、何かしらの策を持っているであろうことは推測できた。
「なんせ、あいつらのことだ。好き勝手にやるだろうさ」
少しあきらめた調子で、しかし不機嫌そうに弓弦に向かってそういうのは、宮野の嫡男であった。
何を思ってか弓弦の部屋に押しかけてきて、愚痴を言っている。アルコールは入っていないはずなのだが、管を巻くという言葉を連想させる程度にはわずらわしかった。
「若君。そろそろお部屋に戻られたほうがいいんじゃないですか?」
にっこり笑って言ってやる。この若君は、こうしてあしらうのが一番効果的であるはずだ。そうやってフジがあしらっていたから。
「部屋に戻ったって無意味な護衛がそこかしこにいるんだ。落ち着けん!」
「二十四時間の監視付きで育った若君の台詞ですか、それ」
監視は事実である。影役はほぼ二十四時間つきっきりが原則で、学校での出来事を逐一すべて報告する役目なども担っていた。
「フジなら構わない。慣れている。――問題はそれ以外の間者だ」
「孜子が昔言ってましたけど、確かに見方によっちゃ影役制度って気色悪いですよね・・・、その親密さが」
「は?」
「姫もあれですしね。末若のところも・・・まぁ、そういう育ち方と片付ければそれまでです。私がとやかく言うことじゃないですね」
「何の話だ」
「お気になさらずに。――で、そろそろお部屋に戻りませんか?」
「もう少し付き合え」
多少面倒なところはあるが、若君はこれの影役に比べればかわいらしい。少年らしいと言ったらそうだ。
そもそも、ここで弓弦に面倒がられている理由からして、かわいらしい些事なのだ。
すなわち、
「フジが薫子とばかり遊んで、俺の護衛役をちっとも果たしていない!」
これの愚痴をこぼしに来たのだ。
やきもちもはなはだしい。
「ねぇ若君・・・酒飲んでます?」
「飲むわけないだろう、俺は未成年だぞ」
「若君って生真面目ですよね。私、大学の合格発表の日に飲みましたよ」
「未成年の飲酒は法律で禁止されているのは知っているのか?」
「知ってますよ。若君こそ、酔っ払いのほうがまだマシとかまだ納得できるとか言う感情知ってます?」
「何の話だ?」
「私の今の心境ですよ」
ため息ものである。相手が若君であるので、心の中だけにとどめているが。
だが言葉だけで充分に若君の機嫌を損ねたらしい。眉間にしわを寄せられてしまった。
「お前がはぐらかすから、こうやってしつこく話すことになるんだろうが」
「はぐらかすつもりは大いにありますが、若君は聞かないほうがいいと思っての家臣心というやつですよ」
「余計なお世話だ、話せ」
今度こそ弓弦はため息をついた。
この首を突っ込みたがる若君は、春日の主となるには危うい存在だろう。――フジが彼の味方を続けなければ。
「あきらめなさいませ、若君。あなたに必要なことは、あなたの影役がお知らせすることでしょう」
「いいから話せ、弓弦。――薫子はなにを考えている?議会は何をするつもりだ?なぜいまさら、俺に護衛が増える?お前や、三家の透・・・現一、それに瀧家の瑞人まで屋敷入りしてるんだ。何もないとは言わせない」
「なるほどねぇ。私なら喋るとお思いってことか」
馬鹿にされていると怒るべき場面なのかもしれない。
春日の間者には守秘義務が当然存在していて、破れば厳罰がある。それを破ってくれそうなのは弓弦だと、若君は看破しているのだ。
そう、看破されている、
ほとんど何も知らないはずの若君が、誰なら一番喋りやすい立場にあるか、見破っている。本人や周りがわかっているかどうかは怪しいが、これは立派な観察眼だった。
「・・・瑞人まで来てるのか。瀧家も大変そうだなぁ」
聞こえよがしな独り言をつぶやくと、若君のイライラが増す。
「何が起こっている?春日の血生臭い話を、こちらに持ち込む気か」
「すみませんねぇ。他家の権力争いは事前に摘み取れるのに、我がこととなるとまったくだめなんですよ、うちの一族」
「いい加減はっきり言え!」
「あなたに何か必要な事柄があるならば、フジが話すでしょう。それまでは大目に見てやってください。あなたへの危険はフジが責任もって排除するはずです。それに、――下手に手を出すと、また腹に穴開けられそうでイヤなんですよね」
それは、この冬の初めの話である。体はあの痛みを克明に記憶していた。
この話を多少なりとも聞き及んでいたらしく、若君はさっと顔色を変えた。
「・・・フジのせいなのか」
「いいえ。フジも一枚噛んでいたことは確かですが、主に薫子のせいです。――彼らの争いに関わろうとするのは、そうなるってことなんですよ。二度と味わいたくないですね、あの痛みは。だからあきらめてください。フジはあなたをないがしろにして沈黙しているわけじゃありません。だから彼が喋るまで、あなたは待たれるべきだ」
簡単に言えば、この時点で止めを刺した。
若君は人を使う立場のくせに、人を思いやりすぎる。我侭なくせに、人の不幸を良しとしない。
複雑な家庭環境で(しかもフジを影役にしておいて)、これは奇跡の産物だろう。ありがたくそれを利用して、追究を逃れることにした。
帰る、と若君はつぶやいた。
そして大人しく部屋を去ろうとする。
「若君」
その背中にむかって言葉をかけた。
「――フジはあなたのために動いているのかと思いますけれど?薫なんか相手に目くじら立てる理由はないはずですよ?」
「そんなことは知っている。いつだって薫子はフジの隣か正面に居て、俺はフジの後ろでかばわれてるんだ」
自嘲が口の端に浮かんでいた。
「若君、・・・血を流して生きる我らのようになることをお望みで?」
「違う」
それ以上の問答を拒むように、ふすまは閉められた。
まっすぐではあるが、少々ややこしい若君である。
弓弦はため息をついて、柱にかけられたカレンダーを見やった。
すでに屋敷に入ってから一週間。
協力しろと言った張本人フジからの接触はない。薫子もほとんど表に出ることなく仕事をしているらしい。そのあたり、うまく孜子や寿子が隠しているのだろう。
小娘一人の、臨終間際の願いを叶えるには少々度が過ぎていると感じなくもない。が、それをさせる魅力を兼ね備えたのが薫子という人なのだ。
(事実、彼女をめぐってさまざまな人がここへやってくる)
暗殺の引き伸ばしは未だに実行中である。が、状況が好転しなければ後五日が限界だ。
実行しなければ、弓弦の監視役として送り込まれた間者に、弓弦が殺されることになる。――誰が監視役かは知れないが、大方滋家か三家だろう。彼らは暗殺専門の家である。
(三家で屋敷に入ったのは、透一人。滋家はまだ誰も・・・いや、末若の影役は滋家の者だ。ありえない話じゃない)
(となると、・・・賢治、悪いけど急いでくれないかな・・・?)
屋敷を支配する緊張感に、胃の底が不快感を訴える。
賢治が滋家を掌握さえすれば、事は簡単だ。
現在、滋家と十家が主導で、頭領への反逆の図画成り立っている。二つの家は一族で二大勢力であり、その二つがそろっているからこそ今の状況がある。これまでは紘家も大きな勢力として数えられてきたが、あいにく徳美がひきおこした一件などから、現在は無力化されている。
十家は身の保身のために今の立場をとっていて、実際に反逆の意があるのは滋家とその他二、三の家々だった。
滋家さえ今の立場を覆せば、たちまち十家は頭領の味方に戻るだろう。残る家々は心底反逆の意を持っていようと日和見であろうと、滋家と十家に対抗する力はない。
(賢治、僕に薫を殺させないで)
そう願うことが身勝手だとは知っている。
それでも願わずにいられない。
(頼むから、――)
すっ、と前触れなくふすまが開いたのはそのときだった。
廊下を来る気配すらなかった。その静けさは、春日一族のものらしいと言えた。もっとも、弓弦にはできない芸当だが。
「・・・・・・孜子?」
怪訝な表情で弓弦はふすまを開けた人物――孜子を見やった。
少し息を切らしているが、その呼吸音は驚くほど静かだ。疲れた表情ながら、それのせいで行動に粗を出すような真似はしない。親しい友を訪ねてきただけだといわんばかりに、ごく自然な動作で部屋に入り、ふすまを閉めた。もっとも、ここで挨拶が交わされていたならば、の話だ。
「何事・・・かな」
孜子はすぐには答えなかった。うつむきがちの顔とは裏腹に、目はこちらを睨むような鋭さで見つめている。
「マキ?」
「あの子が倒れたの」
ようやく放った言葉がそれだった。
「か・・・!」
「ただの貧血よ。驚くようなことではありませんわ」
弓弦の驚きを遮って、平静を保った声で孜子は言った。明らかな嘘だったが、それを指摘するべきではないと、動揺する頭でも判断できた。
「・・・来て」
孜子の声が震えて聞こえたのは、気のせいではない。