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間者には普通拒否権がある。感情によって任務に支障をきたさないためで、ゆえに受けたからには私情を挟めない。
だが今回の事は違った。
間者の拒否権を保証するのは、常に頭領なのだ。――その頭領に、春家を除くすべての家が反抗の意を示した。
すなわち、それぞれの家に属する間者に、拒否権はない。
真家や瀧家は常に中立を保とうとするが、武力を持たないために、こういうときが訪れると一気に弱い立場に立たされる。どんなに中立を叫んでも、ほかの家々に逆らえないのだ。
だから真家当主であるいざよは、春家へ反抗するほかの家々に同調することを選んだ。
真家の正式な間者は、いざよと弓弦の二人。
これだけの人員で、武力を持つ家々になびかないでいるのは無理だった。
そんな状況を、弓弦の宮野入りだけで大方察したのだろう、薫子は肩をすくめて、軽い同情の意を示した。
「真家は、随分割を食ってるみたいね」
弓弦に割り当てられた部屋へ案内するという薫子の後をついて歩く。
薫子は暗く長い廊下には似つかわしくない、明るい声を響かせていた。
弓弦はどういう態度をとるべきか迷いながら、素直に告げた。――告げる瞬間も、告げた後も、無意味と知りながらまだ迷っていた。
「おかげさまでね」
弓弦の恨みがましさこもる返答をうけて、痩せた体を震わせて、薫子は笑う。
「愉快だわ。私の言動でこれほど事が動くなんて」
「愉快で終わらせたら、若い子たちがかわいそうだ。キミと違って、彼らは巻き込まれるんだから」
「かわいそう?そんなわけないわ。――考え方の違いよ、弓弦」
薫子が、首を少しひねり、視線をよこす。挑発的で、好戦的な色がそこには浮かんでいる。
「私たちは、生れ落ちるより前から巻き込まれているのよ。――いいえ、柵の中に囲い閉じ込められている、その親から生まれたのだから私たちも同じ事」
それがどういった意味合いか、一瞬だけ惑う。
春日の檻――そんな言い方をしたのは百家の智親だったか。
薫子が言うのは、それと同じことだろう。
「閉じ込められているのは、とうの昔にみんな知っているでしょう?知ったときに、誰もが選択したのよ。――隅に隠れてやりすごすか、囲いを壊すか、開き直って飼われるか、もしくはそれ以外を」
弓弦は、視線をそらした。
彼女の意見は正しいのかもしれない。
けれど。
「柵の中の事を荒立てたのはキミだよ」
視線をそらしていたので、彼女の反応を見ることは叶わなかった。
薫子は弓弦が見ていない間に歩みを再開していた。そこから数歩の位置にあったふすまを開け、こちらに声をかけてくる。
「部屋はここよ。台所とも近いけど、用がない限り来ないでね。仕事の邪魔はして欲しくないの」
「仕事・・・してるの?」
「あら?なんのために私はここにいるか、あなたわかってる?」
「・・・・・・えっと、」
薫子は戸惑う弓弦の手から荷物を取り上げると、部屋に放り込んだ。弓弦は少しあわてて、薫子を追って部屋の中へ入る。
部屋は和室だった。それほど広くない。昔から使われてきた、使用人――つまり、宮野に出仕した春日の間者たち――の部屋だ。
家具らしいものといえば、小さな箪笥と、文机だけだ。
「ばかにしないでほしいわね。――私は目的のために手段を選ばないことが、確かにあるわ。だけど、手段に対しては、誠実なつもりよ。便利な立場を利用するには、その立場にふさわしいだけの労働をするわ」
美しい、彼女の自尊心を垣間見た。
けれど問答の意味はそんなことではない。
「体は・・・、」
とっさに、部屋を立ち去ろうとしていた薫子の手をつかんだ。
握ったときに伝わってきた感触と細さに、ぎょっとする。――彼女に触れたことは、ほとんどない。だから、細くなっただとか痩せただとか、そんなことを言える基準は持ち合わせていなかった。
ただ純粋に、その細さに驚いたのだ。
この細腕が、春日を揺るがしている事実に。
「体調は、・・・いいの?」
「悪くないわ」
見つめ返してくる目が、今ここでその話題は出すなと言っている。
「ねぇ弓弦。あなたがなぜここへ来たか、私はわかってるわ。議会が何をしようとしているかも。――おそらくここで、私は議会への服従の意を見せるべきなんでしょうね」
「したって無意味だ。もう遅い」
「ええ。だから逃げずに待ってるわ」
そっと手が振り払われる。
そして薫子は一歩下がった。
「なめないで欲しいわね。今まで互いの揚げ足取りしかしてなかった当主たちに、私を殺すことなんかできるわけないわ」
彼女がよく見せる笑みだった。――強気で、何者の追随も許さない、絶対的な美しさを誇る表情。そして纏う雰囲気。
死を間際にしても、それは彼女から失われることがないのだ。