幕間



「さよなら、よりも、一緒に来てくれない?って言葉のほうが自然と出てくるのよ」

 さよなら、と言いたくなかっただけ。
 自らこの舞台を降りなければならないのが、悔しかっただけ。

 幕引きの時を誤れば、惨めなことになるだろうってわかっていた。
 けれど私はその時を知ってさえ、できなかった。
 できるほどに、満足していない。
 この人生に。
 この私に。

「私自身の手では、幕を下せないの。だから、お願い」


--*--



38


「薫が、屋敷仕えに復職したってよ」
 その知らせを持ってきたのは、フジだった。

 寒さが緩んできた。花をめでる季節も近い。椿の上に色を添えた雪も、すっかり姿を消してしまった。
 そんななか、春日の屋敷の縁側は、平和な午後を迎えていた。
 春日の北の方ちか江お手製の苺大福をお茶うけに、和製ティータイムは続く。――弓弦を呼び出したはずの、頭領は一向にくる気配を見せなかった。
 その間を埋めるかのように唐突に庭先に現れたのが、十家のフジだった。
「薫が、屋敷仕えに復職したってよ」
 そして、ついでのように彼は自分の大学合格を告げる。
「・・・よく受かるよね、あれで」
「冗談じゃなく、軽く死にかけたけどな」
 そこまでできる気力と体力、そして努力に見合う結果が充分に出る頭がうらやましい限りだ。
 勉強に関してだけは自分の能力を悲観したことのない弓弦だが、それでも彼のように横道に逸れていたら今の自分はなかっただろう。
「ところで復職って・・・・・・何の冗談?」
「殴るぞ?」
「いやごめん。ほんとに何の話なのかわからなくて」
「死ね。――じゃーな、おれ帰るから」
 なんのためらいもなく、フジは庭から去っていく。
 これ以上話を聞けなくても困るのだが、――何の冗談だろうか。
 復職?屋敷仕え?
 確かに屋敷仕えは百家の役だ。家守の百家。場所と主を守る者たち。
 下働きを主にしているのは、それが一番屋敷を守りやすい形だから。外から来た敵に、一番怪しまれない立場だからだ。
 百家以外にも、もちろん屋敷仕えの人間は存在する。
 だがその全てに、春日の頭領と宮野の当主それぞれの許可が必要である。
 薫子がどんなに復職を希望しても、今の春日の不安定な状況下において頭領が許可するはずがない。薫子の一挙手一投足でどれだけの思惑が動き絡み合うか、誰もが知っていることだ。
 何よりも、許可を出せば頭領の立場が危ない。
「待って、フジ!――なんで薫が、復職できるんだ?!」
 フジは立ち止まり、十数秒間、微動だにしなかった。
 彼の回答を待ちながら、オフホワイトのコートがどうみても女物じゃないのかなとか、カツラはかぶってないし喋り方も男だが、顔には女っぽく見せる化粧をしているみたいだとか、いろいろ考えていたが疑問は飲み込む。
 やがてフジが、振り返った。
「――じじさまが許可なさったからだ。おかげで他の家の当主たちが、じじさまは何をお考えなんだと集まってる。うちの親父ですら。・・・もちろん、じじさま抜きで。おまえのとこの当主も、いないだろ?」
「いないね」
「もっとわからないのは、薫だ。いまさらろくに動かない体で、なんで屋敷仕えをしなきゃならないんだ?あの閉鎖空間じゃ、やれることのほうが少ない。あいつがやりたいことがわからない」
「それで?キミはぼくに、その真意を知らないか、探りにきた?」
「知らないようだったからそれでいい」
 フジはそれ以上とどまらなかった。
 肩につくかつかないかの髪を春風になびかせ、去っていく。
(わかるわけが、ないじゃないか)
 薫子の真意など、知れるわけがなかった。
 彼女の思考を理解するフジですらわからないとなれば、弓弦の範疇におさまりきる代物であるはずがない。
 それが薫子なのだ。
 ため息をついた時、廊下から静かな足音が聞こえてきた。その足音の主の姿を認め、弓弦はすぐにかしこまった。
「かたくなるな、弓弦」
 からからと笑う声がする。
 まとう雰囲気は日本庭園の持つ静謐さと同じ。この人が笑うと、同じ日本庭園でも野の花が紛れ込んでいるような微笑ましさが加わる。
「どうだ、庭がそろそろ賑やかになる」
「花見の季節ですね。新年会が重々しい雰囲気になってしまいましたから、花見くらい楽しくやりたいものです」
「そうさな、それができるならな」
 頭領の口調は重くも軽くもなかった。
 血なまぐさい一族の頭領という地位に長らくあるこの人は、人の生死で動じたりはしないのだ。
「花は、散ればこそじゃ」
 不意に頭領は言う。
「散りゆく眺めは、殊に美しい」
 いつの間にか、奥方ちか江が背後にいた。無言のまま、お茶の入った湯飲みを頭領の傍らにおいて去っていく。
 頭領も奥方に対して何も言わない。湯飲みを手に取り、庭を眺めている。
「散ればこそ、いとど桜はめでたけれ、だったか。――本当に、その通りじゃと思うのさ、この歳になるとな」
「・・・散ればこそ、いとど桜はめでたけれ。うき世になにか、久しかるべき」
 弓弦が詠うと、頭領は柔和な笑みを浮かべてうなずいた。
「よく、知っておったな」
「これでも文系の頭なんですよ。古文は好きでした」
「しかしそなたは一度も今の道に逆らおうとしなかった」
「・・・静かに庭で生きるほうが、いいと思ったんですよ。アスファルトの合間に進出するような根性はないんでね」
「そうさな。それもまた、美しい」
 例えば、庭の影に生える苔でもいい。庭に一つの色を添えるが、決して目立たない場所で、生きていられたらそれでよかった。
「だが・・・まだ咲かぬ花が落ちるのは忍びなくてなぁ」
 頭領はお茶をすすり、昨日の夕飯についてでも話すかのような口ぶりで続けた。
「なんとか咲かぬだろうかと、心をかけてきたのさ。しかしそのために多くのものを犠牲にしてしまったらしい。――いかんな。歳を重ねても、ものを広く見られぬ瞬間がまだまだあるようじゃ」
 そう言って、頭領はまた湯飲みを口に運んだ。
 間違いをしたとの告白を、自分は聞いたらしいと、しばらくたって弓弦は気づいた。だが気づいたところで、何かを言えるほどの人生経験はない。
「人とはつくづく難儀な生き物じゃ。花にも好みが出てしまう。どれも同じ庭に咲く花、同じように手入れするべきだったのだろう。いまさら後悔はせぬがな」
 どうして自分はここに呼ばれたのだろう、と考える。
 頭領が、自分のような若輩者に語ることではないように思えた。だけれど、頭領は続ける。
「あれが咲けば、目にも鮮やかな大輪の牡丹であったか。あるいは誰をも惹きつけ花見の祭りまでさせる桜であろうか」
「・・・食虫植物だと思いますが」
 現在進行形で。
「そうさな。近いかもしれん。・・・わしが思うたのは、人の死体の上に植えられた花だ」
 その言葉に、弓弦はぎょっとして身を引いた。
 リアルに想像できてしまったのは、薫子の日々の行いのせいだろうか。
「弓弦。――百家の業は薫で終わる。あれはそのために生まれてきた子だ。そう思うて、静かに受け入れるがいい」
「じじさま、」
「死者を埋めた土は肥える。その肥えた土で大きく美しく育った花は、気味悪がられるのが世の常。――死者に負い目がある生ける者は、殊に怯える」
 頭領が言うのは、二十年前の百家の反乱だ。
 反乱の首謀者である前百家当主の死からちょうど一年後に生まれた薫子。
 前当主を彷彿とさせる、手腕と反抗の態度を見せる彼女に、きっと何人もの重役たちが怯えたのだろう。  若い世代の弓弦にはわからないことだった。
「・・・長らく続いた事が一つ、終わるだけのことじゃ」
「まるでイエス・キリストじゃないですか。あの子が全部背負って、死んでいくなんて、そのための存在だなんて、」
 例えに出して、そんな存在じゃないだろうと内心で反論した。
 薫子は誰かのために自分の身を犠牲にしたりしない。
 だからこそ、そんな存在として扱われるのは腹立たしかった。
「そう思えば、少しは楽になる」
「じじさま、私は」
「弓弦。これはわしの言うべきことではない。だが薫は語らぬであろうから、言うだけのこと。薫からでなければ、そなたの耳に届かぬことは重々承知で言おう」
 薫子は語らない。――またか、と弓弦は自嘲気味に内心でつぶやく。
 頭領はそれでも真剣に続けた。
「そなたがその業を引きずるな。――そなたがやらずとも、薫は死後にまで己の意思を残すことなど容易くやってのける人間だ」
 頭領の言う意味は理解できなかった。
 それはきっと予言だったのだ。
 理解できない言葉で語られた、明確な未来。
「薫は己のやった事すべてに片をつけていくだろう。――それゆえに、ほかの人間は手出ししてはならぬ。そなたは静かに、事を受け入れろ」
 頭領が、湯飲みを置いた。
 少し冷たい空気が風に混じり始めたのを感じたのか、頭領はそれ以上何も語らず奥へと去っていった。



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