37


「今日の尾行は誰だろ?下手くそだなー」
 けらけらと、声を上げて智親が笑う。――心底楽しそうには見えなかった。彼の表情には濃い影がいつでも落ちている。
 約二十年前、百家の先代当主は、春日の権力を己のものにしようとして失敗、その後、議会からそれなりの罰を受けた。――と、聞いている。「それなり」の意味を知るのには五年ほどかかった。
 百家はそれを機に格下げされた。新たに当主となった先代の妹・寿子は、兄にまつわるものを全て厭い、処分していった。百家に残った唯一といっていい先代のいた名残は、先代の息子、智親だ。
 その智親と弓弦に親交があったのは中学一年までだった。学年にして二つ上だから、彼が中学を卒業して以来、一度も会っていない。
 当時から、影を背負った少年だった。
 報復を恐れた当主議会は、彼を間者として使うこともなく、かといって追放することもできず、今に至る。
「外出に、監視がつくの?」
「基本は。二十年たっても、忘れられんらしいね。ご苦労なこった、俺にゃ何もできねーのにさ」
「・・・大変だね」
「大変なのは、監視役の下っ端くんたち。時々撒いてやんの」
 それくらいしか暇つぶしがないのさ、と遠くを見ながら智親は言った。智親のどこか遠くを見るそのまなざしは、由布姫を思い出させた。他人と視線を交わらせることのない少女と、表情に濃い影を落とす智親と、――彼らは春日の闇の部分という意味で、よく似ている。
 住宅街を抜け、川沿いの道をぶらぶらと歩く。まっすぐで身を隠す場所もないから、尾行してくる間者は遠目に見ても戸惑っていた。
「下手くそー、若いなー」
「ぼくのほうがまだマシかな」
「おっ、言うね。おれが知る限り、おまえも下手くそだったじゃん。あれより酷かった」
「昔の話だよ」
 からかいを振り払おうと何気なく使った言葉に、智親が表情を失くす。
「・・・そうか。十年以上前になるのか」
 彼にとっての十余年が、いかなるものだったのか弓弦は知らない。知らないから、「そうだね」とうなずくことすらできなかった。
「・・・薫は、」
 唐突に、智親は語り始めた。
「薫は、うちの親父に似たんだろうな。マキに言ったら、縁起でもないって怒られたけど」
「・・・そう、かな。前当主のことは、よく覚えてないや」
「おれの親父が死んだ日の、ちょうど一年後なんだよ。薫が生まれたの」
「ああ・・・そんな話があったっけ」
「マキも、寿子叔母さんも、それを異様に気にしてたな。おれには偶然だとしか思えなかったけどね。反逆の血は確かに同じでも、ぜんぜんやり方が違う。薫のほうが、情が深いよ」
「あの子は計算高くて、けっこう冷たいと思うけどな」
「薫は、下っ端の間者相手を使い捨てにしたことなかったよ」
「・・・・・・」
「気に入らない人間を容赦なく突き落とすことはあった。でも、少なくとも自分の手元にいる人間に対して、情をかけないことはなかった。意外と、知られてないけど」
 ふいに、疑問が湧く。智親は、なぜそんなにも薫子のやり方をしっているのか、と。
「キミは・・・一体いつから薫に、」
「薫の病状を聞いたのは、八月ごろかな。本人から聞いた。あいつの話に乗ったのは、秋にあいつが入院したとき」
 秋といえば、春日では徳美が実の父を当主不適任として交代を訴え、弓弦はその混乱に巻き込まれて刺され、徳美も重傷を負い、賢治が滋家から追放された、あの一連の事件の頃である。
 弓弦は思い返しながら、ふと違和感に気づく。
「・・・もしかして、滋家の竜輝は、」
「竜輝?・・・えーっと・・・ああ、そうだ。おまえを暗殺してその罪を滋家になすりつけようとした件には関わってる。っつか、おれが発案」
「え」
「滋家を陥れてでも、あそこの持つ勢力が自分たちの自由にしたい、ってのが二ノ春日と薫の望みだったからな」
 とっさに半歩、智親から距離をとった。肌があわ立つ様が、生々しく感じられる。
「おれが発案するのは、意外?」
 智親の表情は特に変化を見せなかった。その穏やかさは疲れきった老人と似ていて、激しさがどこにも見当たらない。それなのに、絵の具では出せない濃い影の色が見える。
「キミのことを、考えてもみなかったから・・・そういう意味では意外だよ」
「春日から飼い殺しにされるおれが、春日をつぶそうとしてる薫の話に乗らない理由はどこにもない。――だろ?」
「そうだね」
 智親のことを覚えていたのならば、疑わしい人物として真っ先に名を挙げることができただろう。けれど、ずっと忘れていた。孜子さえ彼の名前を出さなかった。――智親が春日に関わってくる姿を、うまくイメージできない。それほどに彼が飼い殺しにされてきた時は長い。
 智親が弓弦のほうを見て首をかしげ、次の瞬間声を立てて笑った。
「警戒するなよ。もう薫からは離れてる」
「いや・・・反射で」
「そんなところ、おまえも春日の人間だよな。――大丈夫さ、薫はおれの発案に乗り気じゃなかった。だから、お嬢さんの気持ちを尊重しときました」
「尊重?」
「ほぼ確実に失敗する間者を送ってやったろ?」
「えっと・・・?」
 弓弦のところに来た間者は、滋家の竜輝。――竜輝は、弓弦が薬物を受け付けにくい体質と知らずに、毒殺しようとした。
(そうだ、違和感があった。――毒殺じゃなければいけない理由はないのに、あの子は、穏やかに死んでいく毒を、)
「己の手を血で染めるには、一種の強さが必要である。けれどためらいのある人間は、とても弱い。――だったよな。春日の裏を知る者に徹底周知される教えは」
「続きがあるよ。――だが、ためらいを捨てるのは一瞬でいい。考え悩むことをやめるな」
「一瞬も捨てられない場合もあるってことさ。竜輝は、おまえに恩義を感じてるみたいだったから、好きなやり方で殺せとだけ言っておいた」
 ふいに智親は立ち止まった。
「恩義?」
 弓弦もつられて立ち止まる。――行く先の歩行者用信号は赤だった。
 いつの間にか、大きな道路につきあたっていた。もう少し行けば、飲食店が立ち並ぶ通りだ。
「あれが任務に失敗したとき、庇ったんだろ?」
「主に賢治がね。ぼくがやったのは、賢治に頼まれた範囲だよ」
「滋家の内部の厳しさは、薫のもとに来た間者たちから多少だけど聞いてるが、――おまえがやったことは、あいつの命を救ってるよ」
 たいしたことはやっていない。
 竜輝のことは、賢治が守ろうとしたのだ。弓弦はそれを手伝っただけ。
 それでも、誰かを救えていたという事実は、無条件にうれしかった。
「そっか・・・」
「だから、竜輝がおまえを殺せる可能性は二十パーセントくらいと踏んでたわけ。――春日の間者にもなれない人間にしちゃ、なかなかのやり手だと思わない?」
 そうだね、とうなずこうとした時、一瞬何かが思考を掠めた。
 はっとして掠った何かを追い、気づく。
「・・・キミは、ぼくが死んでもかまわなかった?」
 その問いは、自然に出てきた。
 智親も、表情一つ変えず当然のようにうなずく。
「春日に幽閉され飼い殺しにされるおれが、おれを忘れて春日に染まって生きるおまえに情をかける理由は、どこにある?」
 これはきっと、熟成しきった憎しみや恨みなのだろう。もう恨みとも呼べない。思考の根幹を成す一部となっている。
 弓弦が何も言えないでいると、智親はふっと笑う。
「今は、おまえをどうにかする理由もないから。――もう薫とは行動を共にしてないって言っただろ」
 信号が青に変わった。しかし、智親は歩き出そうとしない。
「・・・どうして?」
「もう終わりだからさ」
「おわり?」
 智親の言葉を繰り返したとき、ずん、と心臓が不安を訴えた。
 智親は、ためらいもなく続ける。
「薫の最期のオネガイだって、言っただろ。おまえに伝えてくれと頼まれた」
 いつだったか。――フジが、薫子の伝言をもってきた。「弓弦には会わない」と。
 次に聞いたのは、やはりフジの口から。「滋家の当主を蹴落とすための、毒が欲しい」と。
 薫子は直接弓弦に語らない。
 重要な事柄ほど。
「『最期の舞台を整えるから、来てほしい』」
 大きな騒音を撒き散らしながら、大型トラックが横を通過した。
「『私は美しいまま死にたいから』」
 突然、智親が道路に飛び出した。信号は赤色。
 時間が時間なので交通量は落ちていたが、車がかなりのスピードで通過していく。
「チカ!!」
 とっさに叫んだ名が、昔の呼び名だった。
 声に重なって鳴る車のクラクション。けれど、スピードは落ちていない。
 ふわりと、智親の身体が舞う。
「薫と一緒に反逆者として落ちてやるほど、肉親の情ってやつもないんだ。だからおれはまた春日の檻の中に戻る」
 歩行者用信号が再び青色になったとき、智親は無傷で道路の向こう側で笑っていた。
「ちょっと待って!なんで・・・」
 走って横断歩道を渡ろうとする弓弦を、智親は身振りで「止まれ」と示した。
 疑問が身体の動きを鈍らせたその時、建物の影から不意に複数の人影が現れた。
「智親!」
 あわてて、改めて走り始める。
 人影は四つ。そのひとつに、智親がぶつかった。影はぐったりと崩れ落ちる。智親はすぐに体を返し、振り向きざまに向かってきた影にまっすぐ掌をぶつけ、ふらついたその影の腕を引っ張って太い腕を影の首に巻きつけた。影を盾の取る格好で、残る二つに向かって言う。
「去れ」
「薫子を裏切るんですか!」
 影の一つが鋭く問う。
「そうだと言えば、おとなしく去るのか。――はじめに言ったはずだ、おれは反逆者の息子。裏切ることで失うものなどない」
「でも薫はっ」
「薫を語れるつもりになるな。あれは誰にも理解されない。理解されることを嫌う。そんなやつの傍にいたって、不毛だぞ」
「あなたはこのままでいいんですか?!囚われの身であり続ける人生で!」
「これ以上の議論は無駄だ。だけど一応忠告してやる。――薫の命令どおり、もとの生活へ戻れ。まだ間に合う」
「私はこのままの春日に戻るなんて嫌だ!」
「薫に頼らなければそこから抜け出せないつもりか。ならなおさらだ。薫がおまえらをいらないと言ってる。おとなしくそれを受け入れろ」
 横断歩道を渡り終えた弓弦に、誰も興味をむけなかった。
 智親に盾に取られている影も、気を失った影もそれを支えている影も――四人とも、二十歳前後の若い顔だった。
 あからさまな構えの姿勢は取っていないが、家ごとの癖は見抜ける。
(滋家!・・・と、良家?)
 さすがに盾に取られている者と、気を失っている者についてはよくわからない。
 だが会話の内容から、彼らが薫子のもとに集まった、春日に不満を持った若い間者たちだということは確かだ。顔に見覚えはなかった。おそらく分家の者たちだ。
 そして、分家とはいえ現役の間者相手に、間者として活動してこなかった智親が圧倒的な強さを見せ付けたことは、弓弦に驚きを与えていた。
「チカ!」
「下がってろ、弓弦。おれたちを尾行してきた間者にでも、これを知らせて来い」
「でも・・・っ」
 来た方を振り返った弓弦の目に、悲壮な顔をしてこちらへ走ってくる間者が映る。
「呼ばなくても来たみたいだ」
「ほらよ。顔見られないように、さっさと行け」
 智親が盾にしていた間者を、どん、と突き飛ばす。彼らは一瞬だけ視線を交わし、気を失っている一人を背負い、すばやく散っていった。
 智親はそれを見届け、弓弦に向き直った。
「・・・話は終わり。おれはあの下っ端くんと帰るから、おまえも帰れよ」
 智親の手が肩にふれ、そして去っていった。
 ようやく追いついた、尾行してきていた間者が智親に向かってなにか文句を言っていたが、弓弦は四人が消えた闇のほうを見つめていて聞こえなかった。



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