幕間
「人間が、本当に満足する時が来るとは思えないの」
未練たらしくて。
弱々しくて。
きっと、世界で一番、醜い。
「それなのに私は、求めるんだわ」
わたしは美しい人間だったはずなのに、どうしてだろう。
美しい人間であろうとしていたはずなのに。
早く終わりがやってくればいい。
それと同時に願う。
――永遠に続けばいい、って。
--*--
35
回らない頭で、必死に考える。
記憶の嵐に巻き込まれて、消えそうになるそれを。
「どうすれば、私のものになるのかわからないのよ」
その言葉を確かに聴いた。
正面に居たのは、――薫子。
彼女らしくもない、泣きそうな顔で弓弦に向かって言う。
「このせまっくるしい春日の箱庭が、大嫌いだった。だけど二十年間私が育った場所なのは確かなの。ここじゃなきゃ、私は私になれなかった。――ねぇ、私は確かにここを、愛してる。だから」
かおる、と呼びかける。うまく声は出なかった。
薫子は静かに続けた。
「だから、――みんな殺してしまうのも、悪くないと思えるの」
必死で束縛を解こうともがいた。
嗄れた喉で叫んだ。
――それでも、届かない。
弓弦は痛む額を押さえて、目を開いた。
視界に映るものはすべてぼやけている。場所をしっかりと認識できない。
吐き気と悪寒が同時に襲ってくる。だが頭痛が酷すぎて、起き上がることも出来ない。
何年ぶりだろうか、この酷く体力が奪われる感覚を味わうのは。
「世の中にはどーしよーもないことが、結構あるもんだなぁ」
誰かが傍らで喋っている。弓弦に向かって話しかけているのだろうが、弓弦の反応を求めているようではなかった。
「生まれる場所を選べないって言うのは、その代表だよな。一族が悪いと言うのは簡単かもしれないが、言っても何にもかわらない。――偉いもんだね、薫は。若いのに、よくわかってる。一度も恨み言とか言わないんだよ。おれなんて、どれだけ言ったことか」
その喋り方には聞き覚えがあった。
ずっと昔。
十年以上も前。
(誰だ――?)
意識がまた朦朧とし始める。
薫子と会ったはずだった。必死に説得しようとして、けれど薫子は首を横に振って、そして薫子は去った。
――それから?
「――年取ると、情に流されやすくなるな。でも、これを間違ってるとは思えないんだよ。悪いな」
ああ、この謝り方。
最後に聞いたのは、中学のときだったか。
「・・・ちか?」
扉の閉まる音が聞こえた。
夢うつつからいっきに覚醒して起き上がったときには、すでに頭痛も悪寒も去っていた。
寝ている場所は、慣れた自室のベッドではなかった。畳の上に敷かれた、客用の布団だ。作りも豪奢な一室、――春日の屋敷の奥だろう。
数十分か数時間か、狂った時間感覚のままぼんやりしていたら、ふすまがあいて誰かが入ってきた。寝たまま、首だけ動かして見た先にいたのは、意外な人物だった。
その彼が、無表情をほんの少しゆがめて、言う。
「起きたんですね。気分は、どうです?」
「あんまりよくないけど、・・・君は、大人しくしてた?滋家の竜輝」
質問に、竜輝は苦笑した。――いつかの張り詰めた雰囲気が消え去っていた。今は湖面のように静かだ。十代半ばなのだろうけれど、その落ち着きは、彼をずっと大人に見せる。
「・・・あなたは、すこし、変わっていらっしゃる」
「そうでもないよ。賢治とかに比べれば」
「あれは、大いに変です」
竜輝は多くを喋ろうとしない。持ってきた盆を弓弦の傍らに置き、すぐにきびすを返した。
「奥方様に、お知らせしてきます」
敷居の外からふすまを閉めようとした竜輝を呼び止める。
「なんで僕、ここにいるの?」
「俺はその理由、知りませんよ」
静かにふすまが閉じられる。
弓弦は一つ息を吐いて、それから竜輝が置いていった水差しからコップに水を注ぎ、飲み干した。
枕元に置かれていた携帯電話の電源を入れて、日付を確認する。――仕事をはやめに切り上げて、薫子に会おうとしてから三日。
(無断欠勤をどういって説明しようか・・・・・・医者の不養生・・・って次元じゃないよな。実家とはいえ、クビにされるんじゃ・・・?)
この三日間が、ほとんど記憶に残っていなかった。
薫子に会えたはずなのに。その言葉をほとんど覚えていない。彼女の表情を、覚えていない。
(意味がない。なにをしたかったんだ、僕は)
動きなれない人間が、無理に動くものじゃないな、と考える。きっと事なかれ主義は体質なのだ。
やがてふすま越しに声をかけられ、返事をすると静かに春家の奥方――ちか江が入ってきた。
「どうかしら?少しは落ち着いた?」
「ええ、はい・・・。あの、どうして僕はここに?」
割烹着姿のちか江はやわらかく笑う。
「現一くんに背負われてきたのよ」
「げんいち・・・・・・?」
「詳しいことは、マキちゃんが知ってると思うわ。マキちゃんはね、看病手伝ってくれていたの。面倒を持ち込んだのはこっちですからって言って、宮野のほうのお仕事を休んでお手伝いしてくれているんですよ」
「孜子・・・?」
「今はお台所のほうをお願いしているの。あとからお見舞いに来ると思うわよ。家がにぎやかでうれしいわ」
ちか江のうれしそうな顔を見て、ああそうか、と思う。――春家の老夫婦のもとに、子どもは残っていない。一族の者の出入りはあっても、会議などの堅苦しいものばかり。弓弦が子どものころは、一族の子どもがここに集まって一緒に遊んだりしていたのだが、最近はそのようなことも少ないと言う。
滋家の竜輝と賢治が身を寄せ、そこに孜子も加われば賑やかだろう。
「・・・うちの母は、僕がここにいると知って・・・?」
「お伝えしておきましたよ。そうそう、胡月ちゃんがね、とても心配していたそうよ」
「そうですか・・・。ありがとうございます」
「ご飯は食べられるかしら?」
「ええと・・・軽いものなら、たぶん」
「じゃあ、お粥と薬湯を持ってきましょうか。マキちゃんにお願いするから、食べながらお話を聞くといいわ」
ちか江はそう言い残して部屋を出て行った。