25
酷くまぶたが重い。――外は夕闇が迫っていた。まぶた同様に重い体が、ぐったりとソファに沈んでいる。体のあちこちが痛いが、起き上がる気にはなれない。つけっぱなしだったエアコンのせいなのか、口の中がからからに乾いていた。
誰かがリビングのドアを静かに開けた。誰であるか、確かめる気にはなれない。胡月が帰ってきたのか、と頭の片隅で思う。
ふっと視界が陰る。
その影が、胡月ではないことに気づくのは一拍の後。
弓弦は顔をしかめながら体を起こした。
「・・・これは、事態の把握が難しいな」
ソファに座った弓弦と向き合うのは、――賢治が竜輝と呼んだ少年だった。
「そうだな・・・まず、キミが誰の指示で動いているのか、それを聞いていい?」
「いいえ。――あなたには、このまま、・・・死んでいただきます」
少年がすらりと抜くのは、――ナイフ。刃渡りは長くないが、鋭く分厚い。武器に関する知識はそれほどないが、殺傷用だということだけははっきりわかる。そして、懐に忍ばせるにはいい大きさだった。
「本気?――それなら誰の指示かなおさら聞きたい。真家の者に手を出そうなんて、正気なら考えないはずなんだけどな」
「大人しくしてください。心臓にナイフを突き立てることは容易いけれど、それはおれの本意じゃない。あなたにはゆっくりと、――静かに死んで欲しいんです」
「へぇ?」
「苦しまない毒を、お持ちでしょう。それを自らあおってください。でなければ、苦しんで死ぬことになります」
「悪いけど自殺志願者じゃないんだよ。出直しておいで」
竜輝は静かに首を振った。
その顔に、いつかのおびえはまったくなかった。あるのは死を前に悟りを開いたかのような、穏やかで青白い表情。
「キミは滋家に狙われてた。――そこから間違いなのか、その後に何かがあったのか。それくらい聞かせてくれないの?賢治はキミのために滋家を追放されてる、その努力が無駄でなかったかどうかだけでも知りたいな」
「賢治が語るおれは、きっと幻想です」
「そりゃあ・・・賢治が悲しむね」
「あいつがどうしようが、おれの知ったことじゃないんで。親父様に殺されていればよかったものを、のうのうと生き延びて、――恥知らずが」
「キミがどうして賢治を憎んでるみたいな言い方するのかわからないな。彼を恨む理由が、あるの?」
「無駄話はもう終わりましょう。――さあ、早く」
「お断りだよ、どっちの死に方もね」
勝算はない。――誰かがたずねてくるはずもないし、睡眠薬を飲んで寝た現一はまだ起きない。唯一あるとすれば、胡月が帰ってくることだが、それだけはあってほしくなかった。
だが奇妙だ、と直感が訴える。
その違和感の正体を必死で探す。
少年はそんな弓弦に微笑みかけた。――浮かび上がるのは、ぞっとするような美しさ。顔の形が整っているのとは違う。無駄なものを極限までそぎ落としたような、そんな。
「あなたの妹、まだ帰ってこないんですね」
顔から血の気が引く。
「・・・胡月には手を出すな」
「では早めに毒を飲むことをお勧めします」
「殺したいなら、殺せ。耳を削ぎ、指を落として、目を抉ればいい」
「・・・毒を、」
「自ら毒をあおる理由が、ぼくにはないんだよ。だから、ぼくに死んで欲しいなら、殺せ。残念ながらその痛みに耐える精神力はないから、暴れるだろうけどね。――胡月に手を出さないなら、それでいい」
「あなたが毒を飲むことに価値がある、と言ったら?」
「・・・・・・」
自殺に見せかけたいのか。
――そんなわけがない。
どこから命令が下っているにしろ、それが無意味であると知らないはずがない。
弓弦が毒を飲むことに、価値などない。
(さっきの違和感は、これだったわけか)
事態は好転していないが、何かをつかめそうな気がしていた。
「――じゃあ、どうしてキミはぼくに選択肢をくれたの?初めから毒を飲めと言えばいいのに」
「・・・間違えただけです。早く、・・・」
「後何分粘れば、キミはぼくを刺し殺すの?」
「・・・・・・」
少年の顔から表情が消える。――時間的余裕が、彼にもないようだ。
心の奥から静かに焦りが広がりだす。
刺されたいわけがない。安楽に死ねるならそのほうがいい。
だが、――ここに可能性が見える限り、逃げるわけには行かない。
「ねぇ、滋家の竜輝。キミがなぜぼくを狙う?」
少年は答えない。
静かにナイフを構える。その手つきは、賢治と同じ――変幻自在の滋家独特の型。
じっとりと背中に汗がにじむ。
ここまでが、ギリギリか。
「――そこの本棚の端。小箱があるだろう」
「それが、何か?」
「その中に鍵がある。鍵穴は、本棚の側面。下のほうにあるよ。差し込んで回せば、隠してある引き出しが開く。――薬はその中だよ」
「・・・・・・」
少年は弓弦から眼を離さないまま、小箱から鍵を出し、本棚の側面にある鍵穴を探し当てた。
かちりと音がして、精巧に隠してあった引き出しが開く。――本棚の一番下にある装飾のついた部分である。
「そこにあるのはよく使われるもの。毒性は低いものが多い。どれも使ったことがあるんじゃないかな。――麻痺、眠り、嘔吐、幻覚。そして最後に、人を殺すための毒」
「なぜこんなに無防備に?」
「人を殺せるものがって?――少量を呼吸器から吸収させれば気を失い、数十分から数時間で意識を取り戻す。大量に飲ませれば眠り、静かに心臓の力が衰える。便利な毒だよ。使用目的としては、前者が多い」
「では、・・・飲んでいただきましょう」
少年から小さなビンを受け取る。
無味無臭の白い粉。
少年に言って、水を持ってこさせる。ビンの中身を水に溶かす。
「――綺麗だよね。この毒は」
弓弦が同意を求めるが、少年は硬い表情を崩さない。
「綺麗だと思わない?――人の体を左右するものって、綺麗だよ。キミがいつか十家の跡継ぎに使われた物だってそうだよ。キミのような優秀な間者の動きを、ああも簡単に阻害する。ぼくはそれを美しいと思う。代々真家の人間はそうやって毒に魅力を感じてきたんだろうね」
「何を、喋ってるんですか」
「さて、あと何分待てば刺してくれる?」
「意味がわかりません。なぜそれを飲まない?」
「時間的余裕は、ないみたいだねぇ・・・」
ここにきて初めて、少年が苛立ちをあらわにした。
再び構えられたナイフは、まっすぐ弓弦のほうを狙っている。
そのナイフが、振り上げられる。
(さあ、どうする?)
心の中の問いかけは、一体誰に向けて物だったのか。――それは後になってもわからなかった。
そして。