21
その白さは慣れ親しんだものだった。
どこか人を嫌うような匂いや雰囲気も、淀んでいながら緊張感のある空気も。
震える手で個室のドアを開けた先には、望む人がいる。
喉は震えない。息が喉を通り抜けてく。
背後に居たフジが、弓弦の背を押した。――病室の奥へと。
「さっさと入れ」
フジの横柄な声に答えるように、くすりと笑いが中から漏れる。
「突然のことに弱いのよ、弓弦って。だめよねぇ。――そういえば、あなたは顔色一つ変えなかったわ」
「変えてやるかよ」
淡々とフジが返すと、再び笑いが起こる。
二人が会話をやめると、無言が広がった。
苛立ったようにフジが弓弦の背を叩く。
「弓弦、いい加減にしろ」
背を叩かれた勢いで、言葉が飛び出した。
「・・・薫、」
「なあに?」
「・・・・・・いつから、」
「入院のこと?病気のこと?入院は二週間よ。病気は・・・そうね、正式なことが判明してから八ヶ月かしら?」
声の震えた質問に、こともなげに彼女は――薫子は答えた。
彼女の、気の強さが現れた美しさは相変わらずだ。少し痩せた気がするが、漂う雰囲気が病的なものを消し去っていた。
「・・・癌、なの?」
恐る恐るの問いかけに、薫子は笑みを浮かべる。
「フジには何も教えないでと言ったはずだけど?」
「おれは言ってない。真家の血筋だろ、その勘は」
「勘、ねぇ。それって本当に勘?なんで病名がわかるのよ?――できれば弓弦には知られたくなかったのに、嫌だわ。弓弦、議会に私のことを隠すなんて芸当出来ないでしょう?」
「その辺はおれがどうにかしてやるよ。おまえは寝てろ」
「あら、お礼は言わないわよ」
「いいよ、流れとはいえ弓弦にばらしたのはおれなんだから。その辺の責任はとるさ」
淡々と二人は言葉を交わす。議会と跡継ぎ問題を挟んで争った者同士とは思えない穏やかさを保って。
「ねぇフジ。席をはずして」
薫子に言われると、嫌な顔一つせず病室を後にした。
沈黙はそう長くは続かなかった。弓弦の困惑の酷さを、薫子がくすくすと笑うから。
「余命宣告は過ぎたの。だけどぜんぜん死ぬ気にならないわ。・・・って思ってた」
「何があったの?」
「・・・フジは言ってないと思うけれど、現一に弓弦を襲わせたのは私よ」
「・・・!どういう、こと?」
「フジからあなたの様子は聞いてたの。――これはフジが言ったでしょうけど、余計なことをして欲しくなかったのよ。私とフジの最終的な利害は相反してるけど、議会が敵だという意味では利害が一致してる。徳美に事を起こして欲しくなかったのはフジも私も一緒。だけど徳美が事を起こした以上、今度は滋家を抑えなきゃいけない。でも滋家の賢治と弓弦は付き合いが深い。――滋家のやりそうなことはすぐわかったわ。だからあなたに、動いて欲しくなかった。ちょうど体調が崩れかけてたから、先手を打ったつもりだったの。痛かったでしょう、ごめんなさい」
読み違いは、ここからだと、弓弦は気づく。
フジと薫子。二人は互いを敵と認めながら、あまりに穏やかな関係を保っていた。
そしてもう一つの読み違い。
「それでも私が最悪のタイミングで入院だなんてことにならなければ、徳美も現一も、それに賢治も無事でいられたはずなの。――フジを責めないで。自分の足元を守りながら他をも守るのは難しいの。紘家の当主空席を守ったのは彼の精一杯だったはずだもの」
「ぼくが動かなければ、よかったんだね」
「いいえ。現一に襲われた後のあなたの行動を読みきれなかった私とフジの責任よ。徳美も現一も賢治も、そしてあなたのことも、私とフジが巻き込んだの。あなたは後悔しないで」
「違う。自分の意志で、やったんだ。少なくともぼくは」
見つめた先に、薫子が穏やかに微笑んでいる。
「どうして?」
「・・・薫を、守ろうとして」
そう告げたとたん、病室が明るい笑い声で満ちる。
余命宣告を受けたというのが、まるで冗談のようだった。
「ねぇ、弓弦。――・・・覚えてる?私が弓弦に好きだと言ったのは、十年前よ。弓弦は、大きくなったらね、ってはぐらかしたわ」
「・・・そうだっけ、」
「十八の時にも言ったわ。大学に合格したときよ。充分あなたにつりあうと思ったのに、弓弦は『そんなこと言ったっけ』ってとぼけるの。頭にきたわ」
「悪いんだけど、ほんとに覚えてないよ・・・」
気まずくなって、視線を逸らす。
薫子に告白されたことは覚えている。だがそのときの自分の対応はすっぽり記憶から抜け落ちていた。
「まったく・・・今さらだわ、本当に。だって私は選んだ後なんだもの」
「なにを?」
「自分か、あなたか、よ」
弓弦は意味を理解できず、眉根を寄せた。
薫子は嫌な顔一つせず、饒舌に説明を続ける。
「私が余命宣告を受けたのは八ヶ月前なのよ。発覚とほぼ同じ時。その時に、フジとのゲームも一族への反発もすべて終わらせて、大人しく療養という手もあったの。こんな辺境のぼろい病院より真家の病院で治療する方が、よっぽど楽に決まってるじゃない」
「でもそれをしなかった」
「弓弦、気づかないの?――私たち、一年近く会ってないのよ。電話で話したのだって半年前。なぜかわかる?あなたには、病気だって見破られると思ったからよ。隠すのが下手なあなたに知られたら、議会の敵対的な人間にも漏れるから」
薫子に自分が会いに行けばよかった。むりやりにでも会えば、止めることは出来たかもしれない。――こんなにも近くに出口はあったのに、それを自分は避け続けていた。その事実から、目を背けたかった。
「ずっと弓弦に会いたかった。――だけどそれよりも私は、残る時間で自分の力がどれほどのものか試したかったのよ。一族を潰すという形で」
弓弦は溜まっていた息を吐き出した。
フジの「おまえはいつだって遅いんだ」と叫んだ声が、耳の奥で響いていた。
何も言えず、それはそのまま沈黙に繋がった。
しかし今度も長くは続かない。
がらり、と病室のドアが開いた。
視線をやれば、そこには見慣れた男の姿がある。
「え、・・・えええええ、ゆづ・・・弓弦?!」
手に持っていたビニール袋を取り落とし、盛大に驚くのは、――滋家の賢治だ。
「賢治!なんでここに・・・」
「私が匿ってるのよ」
こともなげに薫子が言った。
「匿ってる?――・・・あのさ、賢治。いい加減落ち着いてよ」
「だだだだって!・・・おれさぁ、・・・って、やっぱ言えねぇ!言い訳だもん!」
「えっと・・・薫、どうにかして」
薫はくすくすと肩を震わせながらも、年齢に似合わない子供っぽい混乱具合の賢治に声をかける。
「弓弦のことはひとまず気にしないで。私から説明するから。――それより、買ってきてくれた?」
「う・・・おう。売店のスイーツ、適当に」
賢治はあわててビニール袋を拾うが、落とした衝撃で中のものが崩れていたようだ。ものすごく哀れな顔つきになる。
「ごめん・・・」
「気にしないで」
賢治は弓弦の方を気にしながらも、ビニール袋を薫子に手渡した。
「ありがとう、自分で買いに行くのは億劫だったのよ」
薫子は中身を確かめて、にこりと笑う。
弓弦は説明の続きを求めた。
「で、賢治を匿うって、どういうこと?」
混乱している賢治には聞かない。薫子へと視線を定めていた。
「徳美を殺さなかったから、滋家から追放されたのよ」
「は・・・なんだって?!」
「私も読みが甘かったわ。――滋家が賢治を廃嫡にする理由はなかったのよ。だいたい賢治に徳美暗殺を命じるなんて、その時点でおかしいわ。賢治が動いたとばれたら、賢治は議会に裁かれるし、跡継ぎが動いたとあったら滋家もただじゃすまない。隠された間者はまだいるはずなのに・・・」
「はじめから、賢治は捨て駒?」
「危険覚悟で賢治を介して、弓弦や透や瑞貴を動かさなければならないほど、春家の屋敷の警備が固かったということかしら。――しっくりこないけれど、それが今のところ考えられる一番の理由。
滋家からすれば、賢治さえうまくやればよかったのよ。だけど賢治はわざとあなたたちの前で徳美を襲って、なおかつ徳美やあなたたちにとどめを刺さなかった。滋家は当然激怒ね」
賢治をみやれば、しゅんと落ち込んでいる。
「殺されるところだったのを、十家のガキに助けられた。あれにだけは借りを作りたくなかったのにさあ・・・」
落ち込みどころはそこなのか、と心中でツッコミを入れる。
滋家は春日でも独自のスタイルを保っている。そのうちの一つに、身内に異常に厳しいということが挙げられた。しかし跡継ぎである賢治を殺そうとしたというのはにわかには信じがたい。跡継ぎを殺すなんてことになれば、他の家からの非難は避けられないはずなのに。
「いくら賢治が滋家で嫌われてるって言っても、厳しすぎるだろう・・・仮にも跡継ぎだよ」
「賢治が捕まれば、議会で裁かれるわ。守護をつけられた徳美を襲ったんだもの、それがもし滋家からの命令だとばれたら、いくら滋家でもつぶされるし。だから議会の裁判より先に、滋家は賢治の口封じをしておかなければならなかったの。一族に背いたのは賢治一人ということにして、昔から知られるように身内を厳しく裁く。――滋家はそうしたかったはずよ」
薫子はここでひとつ息をつく。
「滋家の動きが、ぜんぜんわからなかったのよ。賢治とは接触がなかったから、フジも私も賢治が滋家の命令通りに動いているのだと思ってた。それでフジは、現一に徳美を守って欲しいと伝えたの。――賢治がみんなにとどめを刺さなかったと聞いて、フジがあわてて賢治を助けに行って、それからこういう状態よ」
いつの間にか微笑みも消え、強気さえも消え、薫子は険しい表情をしていた。
どうしたのかと問えば、苦笑しようとして失敗した気配が返ってくる。
「喋りすぎて疲れたわ。――ごめんなさい、一人になりたいの」